がなんと仰しゃっても、桐沢さんがなんと言っても、多代子は連れて帰ります。」と、彼はきっぱりと言い切った。その顔色のいよいよ蒼ざめて来たのが、わたしの注意をひいた。
「それにしても、まあ少しお待ちなさい。もうやがて良人も帰って来ましょうから。」と、奥さんはなだめるように言った。そうして、その話題を転ずるように、改めて私を彼に紹介したが、彼はやはり私を記憶していないらしかった。
 わたしは笑いながら言い出した。
「あなたにはお目にかかった事がありますよ。山陽線の汽車の中で……。」
「山陽線の汽車の中で……。」
「蛇の騒ぎがあった時に……。」
 こう言って、わたしはその顔色を窺うと、彼も睨《にら》むように私の顔をじっと見つめていたが、やがて漸く思い出したように、少しくその顔色をやわらげた。
「いや判りました。その節はどうも失礼をいたしました。あなたもここの先生の家へお出入りをなさる方とはちっとも知りませんでした。いや、今夜も少し気が急《せ》いていましたので、どうも失礼をいたしました。」
 彼は繰返して失礼を謝していた。わたしも若いが、彼はさらに若い。一時の亢奮から、なんとなく穏やかならぬ気色《けしき》をみせているが、しょせんは愛すべき一個の青年であることを、私は認めた。彼もわたしには遠慮したのか、あるいはだんだんに神経も鎮まって来たのか、やや落着いたような態度で椅子に腰をおろした。
 奥さんが茶を入れかえに立った後で、私はしずかに彼に訊いた。
「唯今伺ったところでは、妹さんを連れてお帰りになるのですか。」
「まあ、そうです。」と、彼はハンカチーフで額の汗を軽く拭きながら答えた。「どうも困りました。」
 彼はその以上に何事をも語らないので、なじみの薄いわたしが更に踏み込んで其の秘密を探り出すわけにも行かなかった。それと同時に、私がここに長居することは、彼と奥さんとの用談を妨げる虞《おそ》れがあるらしいので、彼ひとりをそこに残して、わたしは二階を降りて来ると、階段の下で奥さんに逢った。
「今晩はこれでお暇《いとま》します。」
「そうですか。」と、奥さんは気の毒そうな顔をしていた。
「いえ、まだ二、三日はこっちに居りますから、また出直して伺います。」
「では、是非もう一度……。」
 奥さんに送られて、わたしが玄関で靴を穿いているときにお嬢さんも出て来たが、多代子は姿を見せなかった。門《かど》を出ると、細かい雨が又しとしとと降っていた。前にもいう通り、そのころの根津権現付近は静かであった。殊に梅雨の暗い夜にはほとんど人通りも絶えている位で、権現の池のあたりで蛙の鳴く声がさびしく聞えた。
 その暗い寂しいなかを五、六間ばかり歩き出すと、塀の蔭から一人の男が現われて私のそばへ近寄って来た。
「あなたは今、江波さんの家から出て来ましたね。」
 暗いので、その人相も風体も判らなかったが、今頃こんな所に忍んでいるのは例の不良青年ではないかという懸念があるので、わたしも油断せずに答えた。
「そうです。なにか御用ですか。」
「もう少し前に、若い男が一人はいって行きましたろう。」
 それは透のことであろうと私は察したので、いかにも其の通りだと答えると、男はわたしを路ばたの或る家の軒《のき》ランプの下へ連れて行って、一枚の名刺をとり出して見せた。彼は××警察署の刑事巡査であった。
「あの若い男は三好透という学生でしょう。」と、刑事は小声で言った。
「そうです。」
「江波博士とどういう関係があるのでしょう。」
 相手が警察の人間であるので、わたしは自分の知っているだけの事を正直に話して聞かせると、刑事は少しく考えていた。
「そうすると、透という学生は三好多代子の実の兄ですね。それはおかしい。実はあの学生は不良性を帯びているので、今夜も尾行《びこう》して来たのですが……。このあいだ江波さんの窓から蛇を投込んだのは、どうもあの男の仕業らしいのです……。」
「それは違います。」と、わたしは思わず声をあげた。「あの時には多代子さんの顔へ蛇を投げ付けたというじゃありませんか。いくら不良性を帯びているといっても、現在の妹に対してそんな悪戯《いたずら》をする筈はないでしょう。現にその犯人は、もう警察へ挙げられたと聞いていますが……。」
「いや、それがね。」と、刑事はしずかに言った。「さきごろ、警察へ挙げられた犯人――それは佐倉という者で、この五月に根津の往来で多代子さんに玩具《おもちゃ》の蛇を投げたことがある。それだけは本人も自白したのですが、江波さんの窓から生きた蛇を投げ込んだ者は確かに判っていないのです。前の一件があるので、警察の方でも一時は彼の仕業と認定してしまったのですが、本人はどうしても後《あと》の一件を自白しない。だんだん調べてみると、まったく彼の仕業ではなく、そのほかにも同じような悪戯《いたずら》者があるらしいのです。その証拠には、佐倉の拘留中にも往来の婦人にむかって、やはり蛇を投げ付けた者があるのですから……。」
「それが三好透だと言われるのですね。」
「どうもそうらしいのですが……。しかし、あなたの言われた通り、他人は格別、実の妹にもそんな悪戯をするのは……。ちっとおかしいように思われますね。」
 刑事は考えていた。わたしも考えさせられた。二人は暫く黙って雨のなかに立っていた。

     四

 そのうちに、私はふと思い出したことがあった。
「しかし、あなたも御承知でしょうが、多代子さんの所へしばしば手紙をよこして、根津権現の門前まで出て来い、さもなければ、いつまでも蛇をもっておまえを苦しめると脅迫した者があるそうです。それもやはり兄の仕業でしょうか。三好透という男は、なんの必要があって自分の妹をそんなに脅迫するのでしょうか。また、自分の兄の筆蹟ならば、多代子さんは無論見知っているでしょうし、江波博士の家の人たちも、大抵は知っている筈でしょうに……。」
「それはね。」と、刑事は打消した。「三好透がなんのために妹を脅迫するのか判りませんけれど、手紙ぐらいは誰かに代筆を頼んだかも知れませんよ。若い友達などの中には、面白半分にそんなことを引き受ける者も随分ありますからね。ただ、肝腎の問題は、三好透がなぜ妹をそんなに脅迫するかということです。あなたにはなんにもお心当りはありませんか。」
 わたしにも勿論、心当りはなかった。しかも刑事に対して何かのヒントを与える材料にもなろうかと思って、わたしは今夜の一条を話した。多代子がこの夏休みに帰省を忌《いや》がること、兄の透が無理に明朝の列車で連れて帰ろうとすること、それらを逐一聴き終って刑事はまた考えていた。
「いや、いろいろありがとうございました。では、まあ、今夜はこのままにして置いて、もう一度よく考えてみましょう。」
 相手が実の妹であると知って、刑事も探偵的興味を殺《そ》がれたらしく、丁寧に挨拶して別れて行った。透と多代子とが兄妹であることを、警察が今まで知らなかったのは少しく迂濶《うかつ》ではないかと私は思った。
 なにしろこうなった以上は、事件が又どんな風にもつれて来て、先生の迷惑になるようなことが無いとも限らない。わたしは翌朝、会社の方へちょっと顔出しをして、すぐに根津へ廻ろうと思っていたのであるが、会社へ出るとやはり何かの用に捉えられて、午前十一時ごろにようよう自由の身になった。きょうは何だか気が急《せ》くので、わたしは人車《くるま》に乗って根津へ駈けつけると、先生はもう学校へ出た留守であった。それは最初から予想していたので、わたしは二階へ通されて奥さんに会った。
「ゆうべはあれからどうなりました。」と、わたしはまず訊いた。
「あなたが帰ってから三十分ほどして、良人《うち》は帰って来ました。」
「透君はそれまで待っていたんですか。」
「待っていました。」と、奥さんはうなずいた。「それがおかしいのですよ。あなたも御承知の通り、透さんは大変な権幕で、あしたにも多代子さんを引摺って帰るような勢いでしたろう。ところが、良人が帰って来て、桐沢さんとこういう相談を決めて来たから、そう思いたまえ。もし不服ならば、桐沢さんのところへ行って何とでも言いたまえと言って聞かせると、透さんは急におとなしくなって、別に苦情らしいことも言わないで、そのまま無事に帰ってしまったのです。」
 奥さんが更に説明するところによると、先生は桐沢氏と相談の結果、この夏休みに多代子は帰省するのを見合せて、先生のお嬢さんと一緒に、桐沢氏の鎌倉の別荘へ転地することになったというのである。それはまことに穏当《おんとう》の解決であるが、あれほどに意気込んでいた兄の透がそれに対してなんの苦情も言わず、そのまま素直に承諾したのは、わたしにも少しく不思議に思われた。
「そこで、透君はどうするんです。」
「透さんは自分ひとりで帰るそうです。」と、奥さんは言った。「多分けさの汽車に乗ったでしょうよ。」
 わたしは奥さんにむかって、ゆうべの出来事を詳しく話して、多代子に生きた蛇を投げ付けたのも、多代子に脅迫状を送ったのも、兄の透の仕業であるらしいということを報告すると、奥さんは顔色を暗くした。
「ああ、そうですか。そんな事がないとも言えませんね。」
 定めて驚くかと思いのほか、奥さんもその事実をやや是認《ぜにん》しているらしい口振りであるので、わたしは意外に感じながら、黙ってその顔をながめていると、奥さんは溜息まじりで言い出した。
「こうなればお話をしますがね。あの透さんという人は、人間はまじめですし、勉強家ですし、学校の成績もよし、なんにも申分のない人なのですが、どういうわけだか自分の妹をひどく憎《にく》がるのです。」
「腹ちがいですか。」と、わたしは訊いた。
「いいえ、同じ阿母《おっか》さんで、ほんとうの兄妹《きょうだい》なのですが……。その癖、ふだんは仲好しで、妹をずいぶん可愛がっているようですが、時々に――まあ、発作的とでもいうのでしょうかね、無暗に妹が憎くなって、別になんという子細もないのに、多代子さんの髪の毛をつかんで引摺り廻したり、打《ぶ》ったり蹴《け》ったりするのです。自分でもたびたび後悔するそうですが、さあ憎くなったが最後どうしても我慢が出来なくなって、半分は夢中で乱暴をするのだそうです。それですから、わたしの家でも注意して、透さんが妹をたずねて来た時には、内々警戒しているくらいです。けれども、まさかに蛇を投込むなどとは思いも付きませんし、脅迫の手紙の筆蹟もまるで違っていましたから、他人の仕業だと思って警察へも届けたような訳ですが……。刑事がそう言うくらいでは、やっぱり透さんの仕業だったかも知れません。なにしろ一緒に帰さないで好うござんした。よもやとは思いますけれど、汽車のなかで不意に乱暴を始められたりしたら、大変ですからね。透さんも初めのうちはそれほどでもなかったのですが、一年増しに悪い癖が募《つの》って来るので、今に多代子さんは兄さんに殺されやしないかと、家の娘などは心配しているのです。」
 わたしにも訳が判らなくなった。わたしは医者でもなし、心理学者でもないから、三好透という青年の奇怪なる精神状態について、なんとも鑑定を下《くだ》すことは出来なかった。刑事の話によると、彼は他の婦人に対しても生きた蛇を投げ付けたことがあるらしい。勿論、確かに彼の仕業であるや否やは判らないが、もし果たしてそうであるとすれば、彼はおそらく一種の乱心《マニア》であろう。もし又、他人に対してはなんらの危害を加えず、単に妹に対してのみ乱暴や脅迫を加えるということであれば、それはやはり普通の乱心として解釈すべきものであるかどうかは、わたしにも見当が付かなかった。
「そうすると、透君がたびたび脅迫状をよこして、妹を根津権現前へよび出して、一体どうするつもりなんでしょう。」
「さあ。」と、奥さんも考えていた。「多代子さんがうっかり出て行ったら、おそらく何かの言いがかりでもして、往来なかでひどい目にでも逢わせるつもりでしたろう。今もいう通り、ふだんは仲好しの兄妹
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