深見夫人の死
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)何人《なんぴと》も
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)突然|仆《たお》れた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぞっ[#「ぞっ」に傍点]と
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一
実業家深見家の夫人多代子が一月下旬のある夜に、熱海の海岸から投身自殺を遂げたという新聞記事が世間を騒がした。
多代子はことし三十七歳であるが、実際の年よりも余ほど若くみえるといわれるほどの美しい婦人で、種々の婦人事業や貧民救済事業にもほとんど献身的に働いていることは何人《なんぴと》も知っている。その主人公の深見氏もまた実業界において稀に見るの人格者として知られていて、財産もあり、男女二人の子供もあり、家庭もきわめて円満である。彼女になんの不足があって、あるいは又なんの事情があって、突然にかかる横死《おうし》を遂げたのか、それが一種不可解の謎として世間をおどろかしたのであった。したがって、それに就いて種々の臆説が伝えられたが、いずれも文字通りの臆説であって、ほとんど信をおくに足るようなものはなかった。自殺と見せかけて、実は他殺ではないかという疑いもあったが、前後の状況に因《よ》って、それが他殺でないことだけは確かめられた。
その新聞記事があらわれてから半月あまりの後に、わたしは某所で西島君に逢った。彼は若いときから某物産会社の門司支店や大連支店に勤めていて、震災以後東京へ帰って来たのである。その西島君が今度の深見夫人の一件について、こんな怪談めいたことを話した。
あれは日露戦争の前年と覚えている。その頃わたしは門司支店に勤めていて、八月下旬の暑い日の午前に、神戸行きの上り列車に乗っていた。社用でゆうべは広島に一泊して、きょうは早朝に広島駅を出発したのである。ことわって置くが、その頃のわたしはまだ学校を出たばかりの新参者で、二等のお客さまとして堂々と旅行する程の資格をあたえられず、三等列車に乗込んでいたのであった。
鉄道がまだ国有にならない時代で、神戸―下関間は山陽鉄道会社の経営に属していた。この鉄道は乗客の待遇に最も注意を払っているというのをもって知られていたので、三等室でも決して乗り心《ごころ》は悪くない。殊に三十五銭の上等弁当のごときは、我れわれのような学生あがりの安月給取りには贅沢《ぜいたく》過ぎるほどの副食物をもって満たされているので、わたしはこの鉄道に乗って往来するごとに、上等弁当を買って食うのを一つの楽しみにしている位であった。そういうわけであるから、三等のお客さまたるをもって満足して、やがて旨《うま》い弁当が食えることを期待しながら揺られてゆくと、ゆうべ遅く寝たのと今日の暑さとで、なんだか薄ら眠くなって来た。
わたしは我れ知らずに小《こ》一時間も眠ったらしい。なにか騒がしいような人声におどろかされて眼をさますと、わたしの車内には一つの事件が出来《しゅったい》していた。車掌が一人の乗客を捉えて何か談判しているのである。他の乗客もみな其の方に眼をあつめていた。中には起《た》ちあがって覗《のぞ》いているのもあった。女客などは蒼い顔をして身をすくめていた。
唯ならぬ車内の様子にいよいよ驚かされて、だんだんその子細《しさい》を聞きただすと、列車はもうFの駅に近づいたので、三、四人の乗客はそろそろと下車の支度をはじめて、その一人が頭の上の網棚から自分の荷物をおろそうとする時に、汽車にゆられて手をはずして、半分おろしかけていた風呂敷包みをほうり出してしまった。幸いに他の乗客にはあたらなかったが、その風呂敷包みが床にどさりと投げ落されたはずみに、結び目がゆるんだとみえて、中の品物がころげ出した。それは何かの缶詰が三つ四つと、大きい唐蜀黍《とうもろこし》五、六本であった。単にそれだけならば別に子細もないのであるが、その唐蜀黍のあいだから一匹の青い蛇が鎌首《かまくび》をもたげたので、他の乗客はおどろいて飛びあがった。女たちは悲鳴をあげて騒いだ。
その騒ぎに車掌もかけ付けて、汽車中へ生き物――殊に蛇などを持ち込んで来た、かの乗客に対して詮議《せんぎ》をはじめたのである。その乗客が農家の人であることは其の服装をみて大抵想像された。彼は四十五、六歳の、いかにも質朴らしい男で、日に焼けている頬をいよいよ赧《あか》らめながら、この不慮の出来事に就いて自分はまったくなんにも知らないと吶《ども》りながらに釈明した。
「乗車券をみせて下さい。」と、車掌は奪うように彼の手から切符を受取って見た。「Kの駅から乗ったのですね。」
「はい。」と、男はひどく恐縮したような態度で答えた。
彼はKの町の近在に住む者で、Fの町から一里ほど距《はな》れたところに親戚があるので、自分の畑から唐蜀黍を取り、Kの町へ出て来て蟹《かに》の缶詰を買い、それらを土産にしてこれから親戚をたずねようとするのであった。勿論、蛇などを持って来る筈《はず》がない。こんな小さな蛇は親戚の村にもたくさんに棲んでいると、彼は言った。
農村の者が農村の親戚を訪問するのに、こんな蛇などをわざわざ手みやげに持って行く筈がない。一尺ぐらいに過ぎない蛇であるから、おそらくその唐蜀黍と一緒にまぎれ込んで来たものであろうとは、誰にも想像されるところである。殊に飛んでもない人騒がせをしたことを、非常に恐縮しているらしい彼のおとなしい態度が諸人の感情をやわらげた。
「そうすると、畑からまぎれ込んだのを、あなたも知らなかったのですね。では、まあ、仕方がない。早く外へ捨てて下さい。」
「はい、はい。」と、男はあやまるように頭を下げた。
「早くして下さい。もう直ぐに停車場へ着きますから。」と、車掌は催促した。
男は農家の人だけに、こんな蛇をなんとも思っていないらしく、無雑作《むぞうさ》にその尾をつかんで窓の外へ投げ出すと、車内の人々は安心したように息をついた。
「どうもまことに相済みません。」と、男は人々にむかって又もや頭を下げた。「どうしてあんな物が這《は》い込んだのか、実に不思議でございます。これからは気をつけます。どうかまあ御勘弁を願います。」
言ううちに、列車はもうFの駅に着いたので、男は又くり返して詫びながら早々に降りてゆくと、それと入れちがいに、この車内へ乗込んで来たのは学生らしい若い男と娘の二人連れで、わたしの向うの空席に腰をおろした。わたしはここで例の弁当を買おうかと思ったが、岡山駅まで待つことにしていると、列車はやがてゆるぎ出した。
「いや、どうも飛んだお茶番でしたね。」と、東京の商人らしい乗客の一人が笑いながら言った。
「蛇となると、小さいのでも気味の好くないもんですよ。」と、隣りにいる一人が答えた。
「まったくあの風呂敷包みがころげ落ちて、唐蜀黍のあいだから蛇の出た時にはぞっ[#「ぞっ」に傍点]としました。」と、その前にいる女も言った。
蛇の噂《うわさ》が一としきり車内を賑わした。あの男は実際なんにも知らないらしい。あの男があんまり恐れ入ってあやまるので、しまいには気の毒になって来たなどという者もあった。新しく乗込んで来た男と娘は、熱心にその話に耳をかたむけているらしかったが、やがて男は小声でわたしに訊《き》いた。
「蛇がどうしたのですか。」
ここでこの男と娘に就いて、すこしく説明して置く必要がある。男は十九か二十歳《はたち》ぐらいで、高等学校の制帽と制服をつけていた。娘は十五、六の女学生らしい風俗で蝦《えび》色の袴《はかま》を穿《は》いていた。その服装と持ち物とを見れば、彼らは暑中休暇で郷里に帰省していて、さらに再び上京するものであることは一と目に覚《さと》られた。かれらが兄妹《きょうだい》であるらしいことも、その顔立ちをみて直ぐに知られたが、取分けて妹は色の白い、眉《まゆ》の優しい、歯並の揃った美しい娘であるのが私の注意をひいた。
問われるままに、わたしはかの青い蛇の一件を物語ると、兄も妹も顔の色を動かした。
「そうして、その蛇はどうしました。」
「駅へ着く前に窓から捨てました。」
「駅へ着く前……。よほど前でしたか。」と、兄はかさねて訊いた。
「いや、捨てると直ぐに駅へ着きました。」
兄は黙って聴いていた。妹の顔色はいよいよ蒼ざめた。若い娘の前で蛇の話などを詳しくしゃべって聞かせたのは、わたしの不注意であったかも知れないと気がついて、もういい加減にその話を打切ろうとすると、兄は執拗《しつこ》く又訊いた。
「その蛇は青いのでしたね。よほど大きいのでしたか。」
「いや、一尺ぐらいでしたろう。」と、わたしは軽く答えた。そうして、その話を避けるように窓の外へ眼をそらした。
わたしが傍《わき》を向いていたのは、せいぜい二分か三分に過ぎなかったが、そのあいだ兄と妹はどう相談をしたのか、網棚の上にあげてある行李《こうり》をおろし始めた。なんだか下車の支度でもするらしいので、私はすこしく不思議に思っていると、やがて列車は次の駅に着いた。その前から二人は席を起って、停車を待ちかねているような風であったが、停まると直ぐに兄はわたしに会釈《えしゃく》した。
「どうも失礼をいたしました。」
妹も無言で会釈して、二人は忙がしそうに下車した。その余りに慌てたような態度が又もやわたしの注意をひいて、窓からかれらの行くえを見送ると、ここは小さい駅であるから乗降りの客も少なく、兄妹《きょうだい》がほとんど駈足で改札口を出てゆく後ろ姿がはっきりと見えた。勿論、なにかの都合で途中下車をしないとも限らないのであるが、くどくも言う通り、余りにもあわただしい二人の様子が何か子細ありげにも思われた。そうして、それがあの蛇の話に何かの関係があるのではないかとも疑われた。それは私ばかりでなく他の乗客にも怪しまれたと見えて、東京の商人は笑いながら私に言った。
「あの娘さんはよっぽど蛇が嫌いらしい。あなたに蛇の話を聞かされて、真っ蒼になってしまいましたね。なんでも兄さんを無理に勧めて、急に降りることになったようです。」
「それで降りたんでしょうか。」
「この箱には蛇が乗っていたというので、急に忌《いや》になったのでしょう。嫌いな人はそんなものですよ。」
それならば他の車室へ引移れば済むことで、わざわざ下車するにも及ぶまいと思いながら、わたしは再び車外へ眼をやると、若い兄妹の姿はもうそこらに見えないで、駅の前の大きい桜に油蝉《あぶらぜみ》が暑そうに啼き続けているばかりであった。
列車がまた進行をはじめると、さっきの車掌がふたたび廻って来た。かの商人は話し好きとみえて車掌の顔をみると直ぐに又話しかけた。
「どうもさっきは驚かされたね、汽車のなかでにょろにょろ這い出されちゃ堪まらないよ。」
「まったく困ります。しかし考えると、少し不思議でもありますよ。」
「なにが不思議で……。」
残暑の強い時節であるのと、帰省の学生らが再び上京するには小一週間ほど早いのとで、列車のなかはさのみ混雑していなかった。現にあの兄妹の起ったあとは空席になっていたので、車掌はそこへ腰をおろした。
「なにが不思議といって……。わたしは一昨年《おととし》の春からこの鉄道にあしかけ三年勤めていますがね、毎年夏になると、蛇の騒ぎが二、三回、多いときには四、五回もあるのです。」
「ここらには蛇が多いのかね。」と、商人は訊いた。
「特に多いという話も聞かないのですが……。」と、車掌はすこし首をかしげながら言った。「それが又不思議で……。その蛇の騒ぎはいつでも広島とFの駅とのあいだに起るのです。そうして、きょうと同じように、乗客自身はなんにも気がつかないでいると、蛇がいつの間にかその荷物のなかに這入り込んでいるのです。ことしももうこれで五回目になるでしょう。わたしも職務ですから、一応はあの人を詮議しましたけれど、肚《はら》の中では又かと思っていました。」
「ふぅむ。そりゃあ不思議だ、まったく不思議だ。」と、商人は仰山《ぎょうさん》らしく顔
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