の空の低く垂れたり。
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魂よばひ達かぬものか秋の空
わが仏ひとり殖えたり神無月
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この夕、少しく調ぶることありて、熊谷陣屋の浄瑠璃本をとり出して読む。十六年は一昔、ああ夢だ夢だの一節も今更のように身にしみてぞ覚ゆる。わが英一は熊谷の小次郎に二つましたる命なりき。
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十六年十八年や秋の露
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三十日、所用ありて浅草の近所まで出《い》で行きたれど、混雑のなかに立ちまじるも楽しからねば公園へは立寄らずして帰る。その帰途、電車の中にてつくづく思うに、われは今日まで差したる不幸にも出で逢わず、よろず順調に過ぎゆきて、身の幸運を誇りいたるに、測らずも英一の死によりて限りなき苦痛を味うこととなりたり。あまりに女々しとは思いながらも、哀傷の情いまだ癒《い》えがたきを如何にすべきか。
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唐がらし鬼に食はせて涙かな
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家に帰れば、留守の間に経師屋《きょうじや》来りて、障子を貼りかえてゆく。英一のありし部屋、俄《にわか》に明るくなりたるように見ゆるもかえって寂し。
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