る。また例の活動写真の広告らしい。
理髪店を出ると、もう八時をすぎていた。露の多い夜気は冷々と肌にしみて、水に落ちる家々の灯のかげは白くながれている。空には小さい星が降るかと思うばかりに一面に燦《きら》めいていた。宿に帰って入浴、九時を合図に寝床に這入ると、廊下で、「按摩は如何《いかが》さま」という声がきこえた。
三
二十八日。例に依って六時入浴。今朝は湯加減が殊《こと》によろしいように思われて身神《しんしん》爽快。天気もまた好い。朝飯もすみ、新聞もよみ終って、ふらりと宿を出た。
月末に近づいたせいか、この頃は帰る人が一日増しに多くなった。大仁行の馬車は家々の客を運んでゆく。赤とんぼうが乱れ飛んで、冷たい秋の風は馬のたてがみを吹き、人の袂《たもと》を吹いている。宿の女どもは門に立ち、または途中まで見送って「御機嫌よろしゅう……来年もどうぞ」……など口々にいっている。歌によむ草枕、かりそめの旅とはいえど半月一月と居馴染《いなじ》めば、これもまた一種の別れである。涙|脆《もろ》い女客などは、朝夕|親《したし》んだ宿の女どもといい知れぬ名残の惜まれて、馬車の窓からいくたび
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