廃兵に逢った。その袖には赤十字の徽章《きしょう》をつけていた。宿に帰って主人から借りた修善寺案内記を読み、午後には東京へ送る書信二通をかいた。二時ごろ退屈して入浴。わたしの宿には当時七、八十人の滞在客があるはずであるが、日中のせいか広い風呂場には一人もみえなかった。菖蒲の湯を買切りにした料見になって、全身を湯に浸しながら、天然の岩を枕にして大の字に寝ころんでいると、好い心持を通り越して、すこし茫《ぼう》となった気味である。気つけに温泉二、三杯を飲んだ。
主人はきょうも来て、いろいろの面白い話をしてくれた。主人の去った後は読書。絶間なしに流れてゆく水の音に夜昼の別《わか》ちはないが、昼はやがて夜となった。食後散歩に出ると、行くともなしに、またもや頼家の方へ足が向く。なんだか執り着かれたような気もするのであった。墓の下の三洲園という蒲焼屋では三味線の音が騒がしくきこえる。頼家尊霊も今夜は定めて陽気に過ごさせ給うであろうと思いやると、我々が問い慰めるまでもないと理窟をつけて、墓へはまいらずに帰ることにした。あやなき闇のなかに湯の匂いのする町家の方へたどってゆくと、夜はようやく寒くなって、そ
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