父様。夜討ちじゃ。
夜叉王 おお、むすめ。見て戻ったか。
かえで 敵は誰やらわからぬが、人数はおよそ二三百人、修禅寺の御座所へ夜討ちをかけましたぞ。
夜叉王 にわかにきこゆる人馬の物音は、何事かと思うたに、修禅寺へ夜討ちとは……。平家の残党か、鎌倉の討手か。こりゃ容易ならぬ大変じゃのう。
かえで 生憎《あやにく》に春彦どのはありあわさず、なんとしたことでござりましょうな。
夜叉王 われわれがうろうろ立ち騒いだとてなんの役にも立つまい。ただそのなりゆきを観ているばかりじゃ。まさかの時には父子《おやこ》が手をひいて立ち退くまでのこと。平家が勝とうが、源氏が勝とうが、北条が勝とうが、われわれにはかかり合いのないことじゃ。
かえで それじゃと言うて不意のいくさに、姉様《あねさま》はなんとなさりょうか。もし逃げ惑うて過失《あやまち》でも……。
夜叉王 いや、それも時の運じゃ、是非もない。姉にはまた姉の覚悟があろうよ。
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(寺鐘と陣鐘とまじりてきこゆ。楓は起ちつ居つ、幾たびか門に出でて心痛の体《てい》。向うより春彦走り出づ。)
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かえで おお、春彦どの。待ちかねました。
春彦 寄せ手は鎌倉の北条方、しかも夜討ちの相談を、測らず木かげで立聴きして、その由を御注進申し上ぎょうと、修禅寺までは駈《か》けつけたが、前後の門はみな囲まれ、翼《つばさ》なければ入ることかなわず、残念ながらおめおめ戻った。
かえで では、姉様の安否も知れませぬか。
春彦 姉はさておいて、上様の御安否さえもまだわからぬ。小勢ながらも近習の衆が、火花をちらして追っつ返しつ、今が合戦最中じゃ。
夜叉王 なにを言うにも多勢に無勢、御所方《ごしょがた》とても鬼神ではあるまいに、勝負は大方知れてある。とても逃れぬ御運の末じゃ。蒲殿といい、上様と言い、いかなる因縁かこの修禅寺には、土の底まで源氏の血が沁《し》みるのう。
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(寺鐘烈しくきこゆ。春彦夫婦は再び表をうかがい見る。)
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かえで おお、おびただしい人の足音……。鎬《しのぎ》を削る太刀の音……。
春彦 ここへも次第に近づいてくるわ。
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(桂は頼家の仮面を持ちて顔には髪をふりかけ、直垂《ひたたれ》を着て長巻を持ち、手負《てお》いの体にて走り出で、門口に来たりて倒る。)
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春彦 や、誰やら表に……。
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(夫婦は走り寄りて扶《たす》け起し、庭さきに伴い入るれば、桂はまた倒れる。)
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春彦 これ、傷は浅うござりまするぞ。心を確かに持たせられい。
かつら (息もたゆげに)おお妹……。春彦どの……。父様はどこにじゃ。
夜叉王 や、なんと……。
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(夜叉王は怪しみて立ちよる。桂は顔をあげる。みなみな驚く。)
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春彦 や、侍衆《さむらいしゅう》とおもいのほか……。
夜叉王 おお、娘か。
かえで 姉さまか。
春彦 して、この体《てい》は……。
かつら 上様お風呂を召さるる折から、鎌倉勢が不意の夜討ち……。味方は小人数、必死にたたかう。女でこそあれこの桂も、御奉公はじめの御奉公納めに、この面《おもて》をつけてお身がわりと、早速《さそく》の分別……。月の暗きを幸いに打物とって庭におり立ち、左金吾頼家これにありと、呼ばわり呼ばわり走せ出づれば、むらがる敵は夜目遠目に、まことの上様ぞと心得て、うち洩《も》らさじと追っかくる。
夜叉王 さては上様お身替りと相成って、この面にて敵をあざむき、ここまで斬り抜けてまいったか。(血に染みたる仮面《めん》を取りてじっと視る)
春彦 われわれすらも侍衆と見あやまったほどなれば、敵のあざむかれたも無理ではあるまい。
かえで とは言うものの、あさましいこのお姿……。姉様死んで下さりまするな。(取り縋りて泣く)
かつら いや、いや。死んでも憾《うら》みはない。賤《しず》が伏屋《ふせや》でいたずらに、百年千年生きたとて何となろう。たとい半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《はんとき》一※[#「日+向」、第3水準1−85−25]でも、将軍家のおそばに召し出され、若狭の局という名をも給わるからは、これで出世の望みもかのうた。死んでもわたしは本望じゃ。
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(云いかけて弱るを、春彦夫婦は介抱す。夜叉王は仮面をみつめて物言わず。以前の修禅寺の僧、頭より袈
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