裟《けさ》をかぶりて逃げ来たる。)
[#ここで字下げ終わり]
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僧 大変じゃ、大変じゃ。かくもうて下され、隠もうてくだされ。(内に駈け入りて、桂を見てまたおどろく)やあ、ここにも手負いが…。おお、桂殿……。こなたもか。
かつら して、上様は……。
僧 お悼《いた》わしや、御最期じゃ。
かつら ええ。(這い起きてきっと視る)
僧 上様ばかりか、御家来衆も大方は斬り死……。わしらも傍杖《そばづえ》の怪我せぬうちと、命からがら逃げて来たのじゃ。
春彦 では、お身がわりの甲斐《かい》もなく……。
かえで ついにやみやみ御最期か。
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(桂は失望してまた倒る。楓は取りつきて叫ぶ。)
[#ここで字下げ終わり]
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かえで これ、姉さま。心を確かに……。のう、父様。姉さまが死にまするぞ。
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(今まで一心に仮面をみつめたる夜叉王、はじめて見かえる。)
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夜叉王 おお、姉は死ぬるか。姉もさだめて本望であろう。父もまた本望じゃ。
かえで ええ。
夜叉王 幾たび打ち直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、われ拙きにあらず。鈍きにあらず。源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今という今、はじめて覚った。神ならでは知ろしめされぬ人の運命、まずわが作にあらわれしは、自然の感応、自然の妙、技芸|神《しん》に入るとはこのことよ。伊豆の夜叉王、われながらあっぱれ天下一じゃのう。(快げに笑う)
かつら (おなじく笑う)わたしもあっぱれお局様じゃ。死んでも思いおくことない。ちっとも早う上様のおあとを慕うて、冥土《めいど》のおん供……。
夜叉王 やれ、娘。わかき女子が断末魔の面、後の手本に写しておきたい。苦痛を堪《こら》えてしばらく待て。春彦、筆と紙を……。
春彦 はっ。
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(春彦は細工場に走り入りて、筆と紙などを持ち来たる。夜叉王は筆を執る。)
[#ここで字下げ終わり]
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夜叉王 娘、顔をみせい。
かつら あい。
[#ここから2字下げ]
(桂は春彦夫婦に扶けられて這いよる。夜叉王は筆を執りて、その顔を模写せんとす。僧は口のうちにて念仏す。)
[#ここで字下げ終わり]

[#地から2字上げ]――幕――



底本:「日本の文学 77 名作集(一)」中央公論社
   1970(昭和45)年7月5日初版発行
初出:「文芸倶楽部」
   1911(明治44)年1月
入力:土屋隆
校正:小林繁雄
2006年4月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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