月明らかにして虫の声きこゆ。)
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頼家 鎌倉は天下の覇府《はふ》、大小名の武家小路、甍《いらか》をならべて綺羅《きら》を競えど、それはうわべの栄えにて、うらはおそろしき罪の巷《ちまた》、悪魔の巣ぞ。人間の住むべきところでない。鎌倉などへは夢も通わぬ。(月を仰ぎて言う)
かつら 鎌倉山に時めいておわしなば、日本一の将軍家、山家そだちのわれわれは下司《げす》にもお使いなされまいに、御果報|拙《つたな》いがわたくしの果報よ。忘れもせぬこの三月、窟詣《いわやもう》での下向路《げこうみち》、桂谷の川上で、はじめて御目見得をいたしました。
頼家 おお、その時そちの名を問えば、川の名とおなじ桂と言うたな。
かつら まだそればかりではござりませぬ。この窟のみなかみには、二本《ふたもと》の桂の立木ありて、その根よりおのずから清水を噴き、末は修禅寺にながれて入れば、川の名を桂とよび、またその樹を女夫《めおと》の桂と昔よりよび伝えておりますると、お答え申し上げましたれば、おまえ様はなんと仰せられました。
頼家 非情の木にも女夫はある。人にも女夫はありそうな……と、つい戯《たわむ》れに申したのう。
かつら お戯れかは存じませぬが、そのお詞《ことば》が冥加《みょうが》にあまりて、この願《がん》かならずかなうようと、百日のあいだ人にも知らさず、窟へ日参いたせしに、女夫の桂のしるしありて、ゆくえも知れぬ川水も、嬉《うれ》しき逢瀬《おうせ》にながれ合い、今月今宵おん側近う、召し出されたる身の冥加……。
頼家 武運つたなき頼家の身近うまいるがそれほどに嬉しいか。そちも大方は存じておろう。予には比企《ひき》の判官《はんがん》能員《よしかず》の娘|若狭《わかさ》といえる側女《そばめ》ありしが、能員ほろびしその砌《みぎり》に、不憫《ふびん》や若狭も世を去った。今より後はそちが二代の側女、名もそのままに若狭と言え。
かつら あの、わたくしが若狭の局《つぼね》と……。ええ、ありがとうござりまする。
頼家 あたたかき湯の湧《わ》くところ、温かき人の情も湧く。恋をうしないし頼家は、ここに新しき恋を得て、心の痛みもようやく癒えた。今はもろもろの煩悩《ぼんのう》を断って、安らけくこの地に生涯を送りたいものじゃ。さりながら、月には雲の障《さわ》りあり。その望みもはかなく破れて、予に万一のことあらば、そちの父に打たせたるかのおもてを形見と思え。叔父の蒲殿《かばどの》は罪のうして、この修禅寺の土となられた。わが運命も遅かれ速かれ、おなじ路をたどろうも知れぬぞ。
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(月かくれて暗し。籠手《こて》、臑当《すねあて》、腹巻したる軍兵《つわもの》二人、上下よりうかがい出でて、芒むらに潜む。虫の声にわかにやむ。)
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かつら あたりにすだく虫の声、吹き消すように止みましたは……。
頼家 人やまいりし。心をつけよ。
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(金窪兵衛尉行親、三十余歳。烏帽子《えぼし》、直垂《ひたたれ》、籠手、臑当にて出づ。)
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行親 上《うえ》、これに御座遊ばされましたか。
頼家 誰じゃ。
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(桂は燈籠をかざす。頼家|透《すか》しみる。)
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行親 金窪行親でござりまする。
頼家 おお、兵衛か。鎌倉|表《おもて》より何としてまいった。
行親 北条殿のおん使いに……。
頼家 なに、北条殿の使い……。さてはこの頼家を討とうがためな。
行親 これは存じも寄らぬこと。御機嫌伺いとして行親参上、ほかに仔細もござりませぬ。
頼家 言うな、兵衛。物の具に身をかためて夜中の参入は、察するところ、北条の密意をうけて予を不意撃ちにする巧みであろうが……。
行親 天下ようやく定まりしとは申せども、平家の残党ほろび殲《つく》さず。かつは函根《はこね》より西の山路に、盗賊ども徘徊《はいかい》する由きこえましたれば、路次の用心としてかようにいかめしゅう扮装《いでた》ち申した。上に対したてまつりて、不意撃ちの狼藉《ろうぜき》なんど、いかで、いかで……。
頼家 たといいかように陳ずるとも、憎き北条の使いなんどに対面無用じゃ。使いの口上聞くにおよばぬ。帰れ、かえれ。
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(行親は騒がず。しずかに桂をみかえる。)
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行親 これにある女性《にょしょう》は……。
頼家 予が召仕いの女子《おなご》じゃよ。
行親 おん謹《つつし》みの身
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