えてもみる。その中《うち》に日が暮れる、秋風が寒くなる。振返って見ると、修禅寺の山門は真暗《まっくら》である。私は何とも知れぬ悲哀を感じて悄然《しょんぼり》と立っていました。その時にふと思い付いたのが、この『修禅寺物語』です。
全体、かの仮面《めん》は、名作か凡作か、素人《しろうと》の我々にはちっとも判りませんが、何でも名人の彫った名作でなければならぬ。その面作師《おもてつくりし》というのは、どんな人であったろう。そんな事を考えている中《うち》に、白髪《しらが》の老人が職人尽《しょくにんづくし》にあるような装《なり》をして、一心に仮面《めん》を彫っている姿が眼に泛《うか》ぶ。頼家の姿が浮ぶ。修禅寺の僧が泛ぶ……というような順序で、漸々《だんだん》に筋を纏《まと》めて行く中《うち》に、二人の娘や婿が自然に現われる事になったのです。しかし作の上では、面作師の夜叉王と姉娘の桂とが、最も主要の人物として働いて、頼家は二の次になってしまいました。
そんな訳《わけ》ですから、全部架空の事実で、頼家の仮面《めん》……ただそれだけが捉《つかま》え所で、他《ほか》には何の根拠もないのです。この仮面《
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