鷹を据《す》え上げたる者に取らせろと将軍は言った。その米は四百俵あったという。こうして、坂入半七は意外の面目をほどこした上に、意外の恩賞にあずかったので、その以来、御徒士組の者は競って水練をはげむようになった。
あらためて言うまでもなく、八代将軍吉宗は紀州から入って将軍職を継いだ人で、本国の紀州にあって、若いときから常に海上を泳いでいたので、すこぶる水練に達している。江戸へ出て来てから自分に扈従《こじゅう》する御徒士の侍どもを見るに、どうもあまり水練の心得はないらしい。水練は武術の一科目ともいうべきものであるのに、その練習を怠るのをよろしくないと思っていたので、この機会において吉宗はかの坂入半七を特に激賞し、あわせて他を激励したのであると伝えられている。いずれにしても、それが動機となって、御徒士の面々はみな油断なく水練の研究をすることとなったのみならず、吉宗はさらにそれを奨励するために、毎年六月、浅草駒形堂附近の隅田川において御徒士組の水練を行なわせることとした。
夏季の水練は幕府の年中行事であるが、元禄以後ほとんど中絶のすがたとなっていたのを、吉宗はそれを再興して、年々かならず励行することに定めたので、いやしくも水練の心得がなければ御徒士の役は勤められないことにもなった。したがってその道にかけては皆相当のおぼえがある中でも、大原右之助は指折りの一人であった。
大原と肩をならべる水練の達者は、三上治太郎、福井文吾の二人で、去年の夏の水練御上覧の節には、大原は隅田川のまん中で立ち泳ぎをしながら短冊に歌をかいた。三上はおなじく立ち泳ぎをしながら西瓜と真桑瓜の皮をむいた。福井は家重代《いえじゅうだい》の大鎧をきて、兜をかぶって太刀を佩《は》いて泳いだ。それ程の者であるから、近習頭の山下もかれが水練の腕前を知らないわけではなかったが、役目の表として、一応は念を押したのである。それに対して、大原もいささか心得がござると答えたのである。大原ばかりでなく、三上も福井も呼び集められて、かれらも一応は水練の有無を問いただされた。
さてその上で、山下はこう言い聞かせた。
「いずれ改めて御上意のあることとは存ずるが、手前よりも内々に申し含めて置く。こんにちの御用は鐘ヶ淵の鐘を探れとあるのだ。」
「はあ。」と、三人は顔を見あわせた。
沈鐘伝説などということを、ここでは説かないこと
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