に将軍家の台所用の野菜や西瓜、真桑瓜のたぐいを作っている。またその附近に広い芝生があって、桜、桃、赤松、柳、あやめ、つつじ、さくら草のたぐいをたくさんに植えさせて、将軍がときどき遊覧に来ることになっている。このときの御成も単に遊覧のためで、隅田のながれを前にして、晩春初夏の風景を賞《め》でるだけのことであったらしい。
旧暦の四月末といえば、晩春より初夏に近い。きょうは朝からうららかに晴れ渡って、川上の筑波もあざやかに見える。芝生の植え込みの間にも御茶屋というものが出来ているが、それは大きい建物ではないので、そこに休息しているのは将軍と少数の近習だけで、ほかのお供の者はみな木母寺の方に控えている。大原右之助は二十二歳で御徒士《おかち》組の一人としてきょうのお供に加わって来ていた。かれは午飯《ひるめし》の弁当を食ってしまって、二、三人の同輩と梅若塚のあたりを散歩していると、近習頭《きんじゅがしら》の山下三右衛門が組頭同道で彼をさがしに来た。
「大原、御用だ。すぐに支度をしてくれ。」と、組頭は言った。
「は。」と、大原は形をあらためて答えた。「なんの御用でござります。」
「貴公。水練《すいれん》は達者かな。」と、山下は念を押すように訊《き》いた。
「いささか心得がござります。」
口ではいささかと言っているが、水練にかけては大原右之助、実は大いなる自信があった。大原にかぎらず、この時代の御徒士の者はみな水練に達していたということである。それは将軍吉宗が職をついで間もなく、隅田川のほとりへ狩に出た時、将軍の手から放した鷹が一羽の鴨をつかんだが、その鴨があまりに大きかったために、鷹は掴んだままで水のなかに落ちてしまった。お供の者もあれあれと立ち騒いだが、この大川へ飛び込んでその鷹を救いあげようとする者がない。一同いたずらに手に汗を握っているうちに、御徒士の一人坂入半七というのが野懸けの装束のままで飛び込んで、やがてその鷹と鴨とを臂《ひじ》にして泳ぎ戻って来たので、将軍はことのほかに賞美された。その帰り路に、とある民家の前にたくさんの米俵が積んであるのを将軍がみて、あの米はなんの為にするのであるか。わが家の食米にするのか、他へ納めるのかと訊いたので、おそばの者がその民家に聞きただして、これは自家の食米ではない、代官伊奈半左衛門に上納するものであると答えると、しからばそれをかの
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