鐘ヶ淵
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お父《とっ》さん

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)隅田川|御成《おなり》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)八代将軍[#「八代将軍」は底本では「八大将軍」]
−−

     一

 I君は語る。

 僕の友人に大原というのがいる。現今は北海道の方へ行って、さかんに罐詰事業をやっているが、お父《とっ》さんの代までは、旧幕臣で、当主の名は右之助《うのすけ》ということになっていた。遠いむかしは右馬之助といったのだそうであるが、何かの事情で馬の字を省《はぶ》いて、単に右之助ということになって、代々の当主は右之助と呼ばれていた。ところで、今から六代前の大原右之助という人は徳川八代将軍吉宗に仕えていたが、その時にこういう一つの出来事があったといって、家の記録に書き残されている。由来、諸家の系図とか記録とか伝説とかいうものは、かなり疑わしいものが多いから、これも確かにほんとうかどうかは受け合われないが、ともかくも大原の家では真実の記録として子々孫々に伝えている。それを当代の大原君がかつて話してくれたので、僕は今その受け売りをするわけであるから、多少の聞き違いがあるかも知れない。その話は大体こうである。

 享保《きょうほう》十一年に八代将軍[#「八代将軍」は底本では「八大将軍」]吉宗は小金ヶ原で狩をしている。やはりその年のことであるというが、将軍の隅田川|御成《おなり》があった。僕も遠い昔のことはよく知らないが、二代将軍の頃には隅田川の堤《どて》を鷹狩の場所と定められて、そこには将軍の休息所として隅田川御殿というものが作られていたそうである。それが五代将軍綱吉の殺生禁断の時代に取毀《とりこわ》されて、その後は木母寺《もくぼじ》または弘福寺を将軍の休息所にあてていたということであるが、大原家の記録によると、木母寺を弘福寺に換えられたのは寛保二年のことであるというから、この話の享保時代にはまだ木母寺が将軍の休息所になっていたものと思われる。
 こんな考証は僕の畑にないことであるから、まずいい加減にしておいて、手っ取り早く本文《ほんもん》にとりかかると、このときの御成は四月の末というのであるから鷹狩ではない。木母寺のすこし先に御前畑というものがあって、そこ
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