って水をくぐることになった。
晴れた日には堤の上から淵の底までも透いて見えると言い伝えられているが、きょうは一天ぬぐうがごとくに晴れわたって、初夏の真昼の日光がまばゆいばかりにきらきらと水を射ているにもかかわらず、少しく水をくぐって行くと、あたりは思いのほかに暗く濁っていたが、水練に十分の自信のある大原は血気の勇も伴って、志度の浦の海女《あま》のように恐れげもなく沈んで行った。沈むにつれて周囲はますます暗くなる。一種の藻のような水草が手足にからむように思われるのを掻きのけながら、深く深くくだって行くと、暗い藻のなかに何か光るものが見えた。
それが何者かの眼であることを悟ったときに、大原の胸は跳《おど》った。かれは念のために背なかの刀を一度探ってみて、さらにその光る物のそばへ潜りよると、それは大きい魚の眼であった。なおその正体を見届けようとして近づくと、魚はたちまちに牡丹のような紅い大きい口をあいて正面から大原にむかって来た。それは淵の主《ぬし》ともいうべき鯉か鱸《すずき》のたぐいであろうと思ったので、かれは一刀に刺し殺そうとしたが、また考えた。その正体はなんであろうとも、しょせんは一|尾《ぴき》の魚である。手にあまって刺し殺したとあっては、きょうの手柄にならない。かの金時が鯉を抱いたように生捕《いけど》りにして上覧に入れようと、かれは水中に身をかわして、かの魚を横抱きにかかると、敵も身を斜めにして跳ねのけた。その途端に、鰭《ひれ》で撲たれたのか、尾で殴られたのか、大原は脾腹を強く打たれて、ほとんど気が遠くなるかと思う間に、魚は素早く水をくぐって藻の深いなかへ姿を隠してしまった。気がついて追おうとすると、そこらの水草は、いよいよ深くなって、名も知れない長い藻は無数の水蛇か蛸のように彼の手足にからみ付いてくるので、大原もほとほと持て余した。
彼はよんどころなしに背なかの刀をぬいて、手あたり次第に切り払ったが、果てしもなく流れつき絡み付く藻のたぐいを彼はどうすることも出来なかった。大原は蜘蛛の巣にかかった蝶のようにいたずらにもがき廻っているうちに、暗い底には大きい波が湧きあがって、無数の藻のたぐいはあたかも生きている物のように一度にそよいで動き出した。そのありさまをみて、大原はおそろしくなった。彼はもうなんの考えもなしに早々に泳いで浮きあがった。
大原は堤へ帰って
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