、大名屋敷や旗本屋敷に幾軒の出入り先を持っていた。殊に大名屋敷に出入りしているのは、店の名誉でもあり、利益でもあるから、大切に御用を勤めること勿論である。中国筋の某藩の江戸屋敷に香川甚五郎という留守居役があって、平素から四郎兵衛を贔屓《ひいき》にしていた。
 その甚五郎があるとき四郎兵衛にささやいた。
「四郎兵衛、気の毒だが、おまえに一つ働いてもらいたいことがある。肯《き》いてくれるか。」
「代々のお出入り、殊にあなた様のお頼みでござりますなら、何なりとも御用を勤めましょう。」と、四郎兵衛は即座に請合った。それは今から四年前のことで、かれが二十二歳の春であった。
「おまえはちっと道楽をするそうだが、近所の三十間堀の喜多屋という船宿を知っているだろう。」
「存じております。」
「おれも知っている。あすこにお安という小綺麗な女がいる……。いや、早合点するな。おれに取持ってくれというのではない。あの女のからだを借りたいのだ。」
 甚五郎の説明によると、そのお安という女を写生したいというのである。顔は勿論、全身を赤はだかにして、手足から乳のたぐいに至るまでいっさいを写生する――今日のモデルとは
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