持たずに歩いて来る。それだけならば別に子細《しさい》もないのであるが、その老婆は乗物におくれまいとするように急いで来るのである。
駕籠は男ふたりが担いでいるのである。附添いの文次郎も血気の若者である。それらが足を早めてゆく跡から、七十に近い老婆がおくれまいと付いて来るのは無理であるように思われた。実際、杖も持たないで腰をかがめ、息をはずませて、危く倒れそうによろめきながら、歩きつづけているのであった。
文次郎の眼にはそれが気の毒にも思われた。また一面には、それが不思議のようにも感じられた。日が暮れかかって、独り歩きの不安から、この婆さんは自分たちのあとに付いて来るのであろうかとも考えたので、彼は見返ってその行く先をきいたのである。
「はい。鮫洲《さめず》までまいります。」
「鮫洲か。じゃあ、もう直ぐそこだ。」
「それでも年を取っておりますので……。」と、老婆は息を切りながら答えた。
「杖はないのだね。」
「包みを抱えておりますので、杖は邪魔だと思いまして……。」
かれは浅黄色の小さい風呂敷包みを持っていた。この問答のうちに、夕暮れの色はいよいよ迫って来たので、駕籠屋は途中で駕籠を
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