黙って歩き出すと、女はやはり附いて来た。私は気味の悪い道連れ(?)を後ろに脊負いながら、とうとう三宅坂下まで辿り着いたが、女は河獺にもならなかった。坂上の道は二筋に分れて、隼町の大通りと半蔵門方面とに通じている。今夜の私は、灯の多い隼町の方角へ、女は半蔵門の方角へ、ここで初めて分れ分れになった。
先《ま》ずほっ[#「ほっ」に傍点]として歩きながら、更に考え直すと、女は何者か知れないが、暗い夜道のひとり歩きがさびしいので、恐らく私のあとに附いて来たのであろう。足の早いのが少し不思議だが、私にはぐれまいとして、若い女が一生懸命に急いで来たのであろう。更に不思議なのは、彼女は雨の夜に足駄を穿かないで、素足に竹の皮の草履をはいていた事である。しかも着物の裾をも引き揚げないで、湿《ぬ》れるがままにびちゃびちゃ[#「びちゃびちゃ」に傍点]と歩いていた。誰かと喧嘩《けんか》して、台所からでも飛び出して来たのかも知れない。
もう一つの問題は、女の着物が暗い中ではっきり[#「はっきり」に傍点]と見えたことであるが、これは私の眼のせいかも知れない。幻覚や錯覚と違って、本当の姿がそのままに見えたのであるから、私の頭が怪しいという理窟になる。わたしは女を怪《あやし》むよりも、自分を怪まなければならない事になった。
それを友達に話すと、君は精神病者になるなぞと嚇された。しかもそんな例は後にも先にもただ一度で、爾来四十余年、幸いに蘆原将軍の部下にも編入されずにいる。
三 三宅坂
次は怪談でなく、一種の遭難談である。読者にはあまり面白くないかも知れない。
話はかなりに遠い昔、明治三十年五月一日、私が二十六歳の初夏の出来事である。その日の午前九時ごろ、私は人力車に乗って、半蔵門外の堀端を通った。去年の秋、京橋に住む知人の家に男の児《こ》が生まれて、この五月は初の節句であるというので、私は祝物の人形をとどけに行くのであった。私は金太郎の人形と飾り馬との二箱を風呂敷につつんで抱えていた。
わたしの車の前を一台の車が走って行く。それには陸軍の軍医が乗っていた。今日の人はあまり気の附かないことであるが、人力車の多い時代には、客を乗せた車夫がとかくに自分の前をゆく車のあとに附いて走る習慣があった。前の車のあとに附いてゆけば、前方の危険を避ける心配がないからである。しかもそれがために、かえって危険を招く虞《おそ》れがある。私の車などもその一例であった。
前は軍医、後は私、二台の車が前後して走るうちに、三宅坂上の陸軍|衛戍《えいじゅ》病院の前に来かかった時、前の車夫は突然に梶棒を右へ向けた。軍医は病院の門に入るのである。今日と違って、その当時の衛戍病院の入口は、往来よりも少しく高い所にあって、差したる勾配でもないが一種の坂路をなしていた。
その坂路にかかって、車夫が梶棒を急転したために、車はずるり[#「ずるり」に傍点]と後戻りをして、そのあとに附いて来た私の車の右側に衝突すると、はずみは怖ろしいもので、双方の車は忽《たちま》ち顛覆《てんぷく》した。軍医殿も私も地上に投げ出された。
ぞっ[#「ぞっ」に傍点]としたのは、その一|刹那《せつな》である。単に投げ出されただけならば、まだしも災難が軽いのであるが、私の車のまたあとから外国人を乗せた二頭立の馬車が走って来たのである。軍医殿は幸いに反対の方へ落ちたが、私は地上に落ちると共に、その馬車が乗りかかって来た。私ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。それを見た往来の人たちも思わずあっ[#「あっ」に傍点]と叫んだ。私のからだは完全に馬車の下敷になったのである。
馬車に乗っていたのは若い外国婦人で、これも帛《きぬ》を裂くような声をあげた。私を轢《ひ》いたと思ったからである。私も無論に轢かれるものと覚悟した。馬車の馬丁もあわてて手綱をひき留めようとしたが、走りつづけて来た二頭の馬は急に止まることが出来ないで、私の上をズルズルと通り過ぎてしまった。馬車がようよう止まると、馬丁は馭者台《ぎょしゃだい》から飛び降りて来た。外国婦人も降りて来た。私たちの車夫も駈け寄った。往来の人もあつまって来た。
誰の考えにも、私は轢かれたと思ったのであろう。しかも天佑《てんゆう》というのか、好運というのか、私は無事に起き上ったので、人々はまたおどろいた。私は馬にも踏まれず、車輪にも触れず、身には微傷だも負わなかったのである。その仔細は、私のからだが縦に倒れたからで、もし横に倒れたならば、首か胸か足かを車輪に轢かれたに相違なかった。私が縦に倒れた上を馬車が真直に通過したのみならず、馬の蹄《ひづめ》も私を踏まずに飛び越えたので、何事もなしに済んだのである。奇蹟的というほどではないかも知れないが、私は我ながら不思議に感じた。他の
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