人々も「運が好かったなあ」と口々にいった。
 この当時のことを追想すると、私は今でもぞっ[#「ぞっ」に傍点]とする。このごろの新聞紙上で交通事故の多いのを知るごとに、私は三十数年前の出来事を想い起さずにはいられない。支那にこんな話がある。大勢の集まったところで虎の話が始まると、その中の一人がひどく顔の色を変えた。聞いてみると、その人はかつて虎に出逢って危うくも逃れた経験を有していたのである。私も馬車に轢かれそうになった経験があるので、交通事故には人一倍のショックを感じられてならない。
 そのとき私のからだは無事であったが、抱えていた五月人形の箱は無論投げ出されて、金太郎も飾り馬もメチャメチャに毀《こわ》れた。よんどころなく銀座へ行って、再び同じような物を買って持参したが、先方へ行っては途中の出来事を話さなかった。初の節句の祝い物が途中で毀れたなどといっては、先方の人たちが心持を悪くするかも知れないと思ったからである。その男の児は成人に到らずして死んだ。



底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
   2007(平成19)年10月16日第1刷発行
   2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「思ひ出草」相模書房
   1937(昭和12)年10月初版発行
初出:柳のかげ「文藝春秋」
   1937(昭和12)年8月
   怪談「モダン日本」
   1936(昭和11)年9月
   三宅坂「文藝春秋」
   1935(昭和10)年8月
※「柳のかげ」の原題は「涼風の思ひ出」。
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年11月29日作成
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