御堀端三題
岡本綺堂
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)陸軍|衛戍《えいじゅ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)はっきり[#「はっきり」に傍点]
−−
一 柳のかげ
海に山に、凉風に浴した思い出も色々あるが、最も忘れ得ないのは少年時代の思い出である。今日の人はもちろん知るまいが、麹町《こうじまち》の桜田門外、地方裁判所の横手、後に府立第一中学の正門前になった所に、五、六株の大きい柳が繁っていた。
堀ばたの柳は半蔵門から日比谷まで続いているが、ここの柳はその反対の側に立っているのである。どういうわけでこれだけの柳が路《みち》ばたに取残されていたのか知らないが、往来のまん中よりもやや南寄りに青い蔭を作っていた。その当時の堀端は頗《すこぶ》る狭く、路幅は殆《ほとん》ど今日の三分の一にも過ぎなかったであろう。その狭い往来に五、六株の大樹が繁っているのであるから、邪魔といえば邪魔であるが、電車も自動車もない時代にはさのみの邪魔とも思われないばかりか、長い堀ばたを徒歩する人々に取っては、その地帯が一種のオアシスとなっていたのである。
冬はともあれ、夏の日盛りになると、往来の人々はこの柳のかげに立寄って、大抵は一休みをする。片肌ぬいで汗を拭いている男もある。蝙蝠傘《こうもりがさ》を杖にして小さい扇を使っている女もある。それらの人々を当込《あてこ》みに甘酒屋が荷をおろしている。小さい氷屋の車屋台が出ている。今日ではまったく見られない堀ばたの一風景であった。
それにつづく日比谷公園は長州屋敷の跡で、俗に長州原と呼ばれ、一面の広い草原となって取残されていた。三宅坂の方面から参謀本部の下に沿って流れ落ちる大溝は、裁判所の横手から長州原の外部に続いていて、昔は河獺《かわうそ》が出るとかいわれたそうであるが、その古い溝の石垣のあいだから鰻が釣れるので、うなぎ屋の印半纏《しるしばんてん》を着た男が小さい岡持をたずさえて穴釣りをしているのをしばしば見受けた。その穴釣りの鰻屋も、この柳のかげに寄って来て甘酒などを飲んでいることもあった。岡持にはかなり大きい鰻が四、五本ぐらい蜿《のた》くっているのを、私は見た。
そのほかには一種の軽子《かるこ》、いわゆる立ちン坊も四、五人ぐらいは常に集まっていた。下町から麹町四谷方面の山の手へ上るには、ここらから道路が爪先あがりになる。殊《こと》に眼の前には三宅坂がある。この坂も今よりは嶮《けわ》しかった。そこで、下町から重い荷車を挽いて来た者は、ここから後押しを頼むことになる。立ちン坊はその後押しを目あてに稼ぎに出ているのであるが、距離の遠近によって二銭三銭、あるいは四銭五銭、それを一日に数回も往復するので、その当時の彼らとしては優に生活が出来たらしい。その立ちン坊もここで氷水を飲み、あま酒を飲んでいた。
立ちン坊といっても、毎日おなじ顔が出ているのである。直《す》ぐ傍には桜田門外の派出所もある。したがって、彼らは他の人々に対して、無作法や不穏の言動を試みることはない。ここに休んでいる人々を相手に、いつも愉快に談笑しているのである。私もこの立ちン坊君を相手にして、しばしば語ったことがある。
私が最も多くこの柳の蔭に休息して、堀ばたの凉風の恩恵にあずかったのは、明治二十年から二十二年の頃、即ち私の十六歳から十八歳に至る頃であった。その当時、府立の一中は築地の河岸、今日の東京劇場所在地に移っていたので、麹町に住んでいる私は毎日この堀ばたを往来しなければならなかった。朝は登校を急ぐのと、まだそれほどに暑くもないので、この柳を横眼に見るだけで通り過ぎたが、帰り路は午後の日盛りになるので、築地から銀座を横ぎり、数寄屋橋見附を這入《はい》って有楽町を通り抜けて来ると、ここらが丁度休み場所である。
日蔭のない堀ばたの一本道を通って、例のうなぎ釣りなぞを覗《のぞ》きながら、この柳の下に辿《たど》り着くと、そこにはいつでも三、四人、多い時には七、八人が休んでいる。立ちン坊もまじっている。氷水も甘酒も一杯八厘、その一杯が実に甘露の味であった。
長い往来は強い日に白く光っている。堀ばたの柳には蝉の声がきこえる。重い革包《かばん》を柳の下枝にかけて、帽子をぬいで、洋服のボタンをはずして、額の汗をふきながら一杯八厘の甘露を啜《すす》っている時、どこから吹いて来るのか知らないが、一陣の凉風が青い蔭を揺《ゆる》がして颯《さっ》と通る。まったく文字通りに、凉味骨に透るのであった。
「凉しいなあ」と、私たちは思わず声をあげて喜んだ。時には跳《おど》りあがって喜んで、周囲の人々に笑われた。私たちばか
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング