りでなく、この柳のかげに立寄って、この凉風に救われた人々は、毎日何十人、あるいは何百人の多きに上ったであろう。幾人の立ちン坊もここを稼ぎ場とし、氷屋も甘酒屋もここで一日の生計を立てていたのである。いかに欝蒼というべき大樹であっても、わずかに五株か六株の柳の蔭がこれほどの功徳を施していようとは、交通機関の発達した現代の東京人には思いも及ばぬことであるに相違ない。その昔の江戸時代には、他にもこういうオアシスが沢山見出されたのであろう。
 少年時代を通り過ぎて、私は銀座辺の新聞社に勤めるようになっても、やはりこの堀ばたを毎日往復した。しかも日が暮れてから帰宅するので、この柳のかげに休息して凉風に浴するの機会がなく、年ごとに繁ってゆく青い蔭をながめて、昔年の凉味を忍ぶに過ぎなかったが、我国に帝国議会というものが初めて開かれても、ここの柳は伐《き》られなかった。日清戦争が始まっても、ここの柳は伐られなかった。人は昔と違っているであろうが、氷屋や甘酒屋の店も依然として出ていた。立ちン坊も立っていた。
 その懐かしい少年時代の夢を破る時が遂に来った。彼の長州原がいよいよ日比谷公園と改名する時代が近づいて、先《ま》ずその周囲の整理が行われることになった。鰻の釣れる溝の石垣が先ず破壊された。つづいてかの柳の大樹が次から次へと伐り倒された。それは明治三十四年の秋である。凉しい風が薄寒い秋風に変って、ここの柳の葉もそろそろ散り始める頃、むざんの斧や鋸がこの古木に祟《たた》って、浄瑠璃に聞き慣れている「三十三間堂棟由来」の悲劇をここに演出した。立ちン坊もどこかへ巣を換えた。氷屋も甘酒屋も影をかくした。
 それから三年目の夏に日比谷公園は開かれた。その冬には半蔵門から数寄屋橋に至る市内電車が開通して、ここらの光景は一変した。その後いくたびの変遷を経て、今日は昔に三倍するの大道となった。街路樹も見ごとに植えられた。昔の凉風は今もその街路樹の梢に音づれているのであろうが、私に凉味を思い起させるのは、やはり昔の柳の風である。

     二 怪談

 御堀端の夜歩きについて、ここに一種の怪談をかく。ただし本当の怪談ではないらしい。いや、本当でないに決まっている。
 私が二十歳の九月はじめである。夜の九時ごろに銀座から麹町《こうじまち》の自宅へ帰る途中、日比谷の堀端にさしかかった。その頃は日比谷にも昔の見附の跡があって、今日の公園は一面の草原であった。電車などは勿論往来していない時代であるから、このあたりに灯の影の見えるのは桜田門外の派出所だけで、他は真暗である。夜に入っては往来も少い。時々に人力車の提灯《ちょうちん》が人魂《ひとだま》のように飛んで行く位である。
 しかもその時は二百十日前後の天候不穏、風まじりの細雨の飛ぶ暗い夜であるから、午後七、八時を過ぎると殆《ほとん》ど人通りがない。私は重い雨傘をかたむけて、有楽町から日比谷見附を過ぎて堀端へ来かかると、俄《にわか》にうしろから足音がきこえた。足駄の音ではなく、草履《ぞうり》か草鞋《わらじ》であるらしい。その頃は草鞋もめずらしくないので、私も別に気に留めなかったが、それがあまりに私のうしろに接近して来るので、私は何ごころなく振返ると、直《す》ぐ後ろから一人の女があるいて来る。
 傘を傾けているので、女の顔は見えないが、白地に桔梗《ききょう》を染め出した中形の単衣《ひとえ》を着ているのが暗いなかにもはっきり[#「はっきり」に傍点]と見えたので、私は実にぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。右にも左にも灯のひかりのない堀端で、女の着物の染模様などが判ろうはずがない。幽霊か妖怪か、いずれただ者ではあるまいと私は思った。暗い中で姿の見えるものは妖怪であるという古来の伝説が、わたしを強く脅かしたのである。
 まさかにきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と叫んで逃げるほどでもなかったが、わたしは再び振返る勇気もなく、ただ真直に足を早めてゆくと、女もわたしを追うように附いて来る。女の癖になかなか足がはやい。そうなると、私はいよいよ気味が悪くなった。江戸時代には三宅坂下の堀に河獺《かわうそ》が棲《す》んでいて、往来の人を嚇《おど》したなどという伝説がある。そんなことも今更に思い出されて、私はひどく臆病になった。
 この場合、唯一の救いは桜田門外の派出所である。そこまで行き着けば灯の光があるから、私のあとを附けて来る怪しい女の正体も、ありありと照らし出されるに相違ない。私はいよいよ急いで派出所の前まで辿《たど》り着いた。ここで大胆に再び振返ると、女の顔は傘にかくされてやはり見えないが、その着物は確《たしか》に白地で、桔梗の中形にも見誤りはなかった。彼女は痩形の若い女であるらしかった。
 正体は見とどけたが、不安はまだ消えない。私は
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