前がつまらねえ娑婆《しやば》ツ氣《き》を出して、云はずとも好いことをべら[#「べら」に傍点]/\しやべつたもんだから、到頭こんなことになつてしまつたのだ。
權三 それだからおれも唯、勘太郎らしいと曖昧《あいまい》に云つて置かうと思つたのを、大屋さんが何でも勘太郎に相違ございませんと、はつきり[#「はつきり」に傍点]云つてしまへと指圖するもんだから、おれもつい其氣になつたのだ。手前だつて御白洲《おしらす》で、確かに左樣でございますと云つたぢやねえか。
助十 そりやあお奉行樣が確かに左樣かと念を押すから、おれの方でもついうつかりと、ハイ左樣でございますと云つてしまつたのよ。おれが好んで云つたわけぢやあねえ。
權三 好んで云つても云はねえでも、御白洲で一旦云つてしまつた以上は、もう取返しは付かねえ。どうしたら好からうな。
助十 さあ、どうしたらよからう。おい、八。なんとか工夫はあるめえかな。
助八 それ見ねえ。めい/\のからだに火が付いてゐるのだ。兄弟喧嘩なんぞしてゐるやうな場合ぢやねえぢやあねえか。
おかん ほんたうに夫婦喧嘩どころの騷ぎぢやあないよ。
權三 所拂《ところばら》ひぐらゐで濟むだらうか。(かんがへる。)もしお呼び出しになつて、今度こそは入牢申付くるなぞと來た日にやあ助からねえぜ。
與助 あの彦三郎といふ人は年も若し、親孝行の一心から出たことだから、上のお慈悲もあるだらうが、おまへ達はどうだかなあ。
助十 このあひだは牢へぶち込まれようが何うしようが構はねえといふ料簡だつたが、さて斯うなつてみると、どうも牢なんぞへは行きたくねえ。やつぱりあの時に止せばよかつたのだ。やい、權三。おれは一生手前を恨むぞ。
權三 そんなことを云つてくれるなよ。かうなりやあお互えに一蓮托生《いちれんたくしやう》ぢやあねえか。なにしろ何うも弱つたな。
おかん (權三の袖をひく。)おまへさん。いつそ今のうちに姿を隱しちやあどうだえ。
權三 おれが逃げたら、あとの者に難儀がかゝるだらう。今度はおめえが町内預けにでもなるかも知れねえぜ。
おかん (涙ぐむ。)そりやあ亭主の爲だもの、仕方がないやね。
助八 ぢやあ、兄い。おめえも逃げることにするか。逃げるなら、大屋さん達の歸らねえうちの方がいゝぜ。
雲哲 だが、二人を逃がしてしまつたら、家の者ばかりでなく、大屋さんや月番の行事は勿論、まかり間違へば相長屋一同が迷惑することになるだらう。
願哲 さうだ、さうだ。皆ながどんな迷惑を被《き》ることになるかも知れないから、駈落なんぞは止して貰ひたいな。
與助 それもうまく逃げ負《おほ》せればいゝが、途中で捉《つか》まつたが最後、罪はいよ/\重くなるばかりだ。
助十 それもさうだな。ぢやあ、まあ大屋さんの歸るまで、おとなしく待つとしようか。
助八 大屋さんが歸つて來たら、もう間にあふめえぜ。
與助 いや、駈落はよくないよ。
おかん それぢやあ何うすればいゝのさ。
與助 それはわたしにも判らないが、なにしろ困つた事が出來たものだ。
助十 おれたちはあの彦三郎の尻押しをして、大屋の家へあばれ込んだと云ふことになつてゐるんだからな。
權三 おまけにその勘太郎が人違ひと來た日にやあ、どう考へても無事ぢやあ濟むめえ。
助十 こりやあやつぱり駈落だ。
與助 いけない、いけない。
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(與助と雲哲、願哲は助十を支へてゐる。下のかたの路地口より左官屋勘太郎、三十二三歳、身綺麗にいでたち、角樽《つのだる》と鯣《するめ》をさげて出づ。)
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雲哲 あ、勘太郎が來た。
與助 なに、勘太郎が來た。
願哲 ほんたうに來た、來た。
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(人々は顏をみあはせ、權三と助十は思はずあとへ退る。勘太郎は何氣なく一同に挨拶する。)
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勘太郎 みなさん、急にお涼しくなりました。
與助 (なんだか氣の毒さうに。)朝晩はめつきりと涼風《すゞかぜ》が立つて來ました。
勘太郎 御近所に居りながら、つい/\御無沙汰ばかり致して居ります。
與助 はい、はい。おたがひ樣で……。
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(人々は勘太郎のこゝろを測《はか》りかねて、不安らしく眺めてゐる。)
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勘太郎 駕籠屋の權三さんと助十さんの家はここでございますね。
おかん (もぢ/\しながら。)はい、はい。
助八 (度胸を据ゑて進み出づ。)そつちが權三、こつちが助十の家ですが、なんぞ御用ですかえ。
勘太郎 とき/″\錢湯でお目に
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