かゝつてゐながら、ついお見それ申しました。お前さんは助さんの弟さんでしたね。わたしは豐島町の勘太郎ですよ。(云ひながら權三と助十に眼をつける。)おゝ、權さんも助さんもそこにゐるのか。
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(權三と助十はだまつて俯向《うつむ》いてゐる。)
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勘太郎 早速ですが、わたしも飛んだ災難で、小一月も傳馬町《でんまちやう》の暗いところへ送られてゐましたが、流石は太岡越前守樣のお捌きで、白い黒いはすぐに判りまして、きのふの夕方、無事に下げられて來ました。
おかん (やはりもぢ/\しながら。)それはまあお目出たうございました。
勘太郎 今度のことに就きましては、權さんと助さんには色々御心配をかけたやうに聞いて居りますので、これはほんのお禮のおしるし、甚だ失禮ではございますが、どうぞお納めをねがひます。
おかん はい。(とは云ひながら手を出しかねてゐる。)
勘太郎 (助八に。)では、八さん。どうぞこれを……。
助八 (同じく變な顏をして。)え、どうしてこんな物を呉《く》んなさるのだね。
勘太郎 今も申す通り、わたしも明るい體になつて世間へ出て來ましたから、近所隣へも心ばかりの配り物をいたしました。そのついでと申しては何ですが、これを權さんと助さんへもお禮心に差上げたいと存じまして……。
助八 ひどく切口上で、をかしいぢやあねえか。なんで禮をくれるのだ。(勘太郎の顏をながめてゐる。)
與助 おゝ、角樽に鯣……。いや、なか/\行き屆いたものだな。
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(與助は猿を背負ひ、近寄つて覗く時、その背中にゐる猿は不意に手をのばして鯣を引つたくる。)
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與助 (おどろいて。)えゝ、飛んでもないことをするな。(鯣を取返して、猿のあたまを打つ。)さあ、さあ、お詫をしろ。お詫をしろ。
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(與助は背中より猿をおろし、その頭をおさへてお辭儀をさせようとすれば、猿はその手を拂ひ退け、齒をむき出して勘太郎に飛びかゝる。不意におどろきたる勘太郎はたちまち殘忍の相をあらはし、兩手に猿の喉を強くおさへて絞め殺し、その死骸を投げ出す。人々は呆氣《あつけ》に取られたやうに眺めてゐると、與助は猿の死骸をかゝへて泣き出す。)
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與助 おゝ、猿めが死んだ、死んだ。
雲哲 死んだ、死んだ。
おかん まあ、可哀さうだねえ。
勘太郎 いや、これはわたしが惡かつた。猿は死にましたか。
與助(泣く。)死にました、死にました。
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(勘太郎は紙入から金三枚を取出し、紙にのせて出す。)
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勘太郎 なにしろ猿めが無暗に飛びついて來るので、わたしも夢中になつて飛んだことをしてしまひました。お前さんの商賣道具をなくなした償《つぐな》ひと、云つては少いかも知れないが、これでまあ堪忍してください。
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(與助はだまつて泣いてゐる。)
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雲哲 (與助のそばに寄る。)商賣道具の猿を殺されては、おまへも定めて困るだらうが、三兩といふ金があれば又どうにかなる。
願哲 これも災難とあきらめて、我慢しなさい。我慢しなさい。
與助 幾年も馴染んだ此の猿を金にかへられるものか。(又泣く。)
雲哲 さう云つても今更仕樣がない。(勘太郎の手より金を受取る。)さあ、これで代りの猿を買へばいゝのだ。
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(雲哲と願哲は與助に金をわたし、なだめながら助十の家の縁の方へ連れてゆく。與助は猿をかゝへて泣いてゐる。)
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勘太郎 わたしはなぜこんな手暴《てあら》いことをしたか。くれ/″\も堪忍して下さい。あゝ、これで肴《さかな》も臺無しになつてしまつた。まあ、酒だけでも納めて貰ひませう。
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(勘太郎は落ちてゐる鯣を足にて蹴飛ばす。このあひだに權三と助十は眼で知らせ合ひ、形をあらためて勘太郎のまへに出る。)
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權三 もし、勘さん。どうも何とも申譯がありません。この長屋にゐた彦兵衞のせがれが大坂からわざ/\下つて來て、おやぢの無實を訴へると云つて泣
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