供のやうに手放しで泣きやあがつた。さうして、大岡樣はありがたいと手をあはせて拜んだぢやあねえか。今になつてお奉行樣の氣が知れねえもねえものだ。手前勝手も好加減にしろ。
おかん そのときは其時さ。けふのやうに亭主風を吹かせて勝手氣儘のことを云はれちやあ、あたしだつて蟲が承知しないだらうぢやないか。
權三 亭主が酒を買つて來いといふのが、なんで勝手氣儘だ。どんな裏店《うらだな》でも一軒のあるじが、酒ぐらゐ飮むのは當りめえだぞ。
おかん 一軒のあるじなら主人《あるじ》らしく、酒を買ふ錢を五十でも百でも、耳を揃へてならべてお見せよ。
權三 その錢がねえから手前に頼むのぢやねえか。判らねえ外道《げだう》だな。
おかん 外道でも般若《はんにや》でも、質草はもう何にもないよ。
權三 それだから大屋さんへ行つて頼めといふのだ。
おかん 家賃を小半年《こはんとし》も溜めてゐる上に、そんな蟲のいゝことが云つて行かれるものかね。まして此の矢先ぢやあないか。
權三 この矢先だから頼みに行けといふのだ。ふだんの時とは譯が違はあ。
おかん そんならお前が自分で行つておいでな。
權三 おれが行かれねえから、手前に頼むのだ。さういふことは女の役だ。
おかん 金を借りに行くのは女の役だ……。(あざ笑ふ。)權現樣《ごんげんさま》がそんなことをお決めなすつたのかえ。
權三 あゝ云へば斯ういふと、手前のやうに亭主を見くびつてゐる女も世界に少ねえものだ。
おかん おまへのやうに女房をいぢめる亭主も世界にたんとあるまいよ。
權三 うぬ、もうどうしても助けちやあ置かねえぞ、念佛でも題目でも勝手に唱へてゐろ。
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(權三は土間に飛び降りて、駕籠の息杖《いきづゑ》を持ち來れば、おかんは掻《か》いくゞりて駕籠のかげに隱れるを、權三は杖をふりあげて追ひまはす。上のかたより猿まはし與助は商賣に出る姿にて、猿を背負ひて出で、この體《てい》をみて割つて入る。)
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與助 又いつもの夫婦喧嘩か。まあ、まあ、靜かにしなさい。
權三 こん畜生があんまり不貞腐《ふてくさ》るから、ぶち殺してしまはうと思ふのさ。
おかん まあ、聽いて下さいよ。毎日商賣にも出られないで、米櫃《こめびつ》ががた[#「がた」に傍点]付いてゐる最中に、朝から酒を買への何のと勝手な熱ばかり吹くから、あたしが少し口答へをすると、すぐに生かすの殺すのといふ騷ぎさ。愛想が盡きるぢやあありませんか。
與助 どつちの贔屓《ひいき》をするでもないが、どうもそれは御亭主の方がよくないやうだな。
權三 なぜ惡いんだよ。
與助 なぜと云つて、おまへは町内あづけの身の上ではないか。それが朝から酒を飮んで、女房を生かすの殺すのと騷ぎ立てて、そんなことがお上の耳に這入つたらどうするのだ。今度の一件の落着《らくちやく》するまでは、せい/″\謹愼してゐなければなるまいではないか。
おかん それをあたしが云つて聞かせても、馬の耳に念佛なんですよ。
權三 うるせえ。引込んでゐろ。(すこし眞面目になつて。)なるほど、おめえの云ふ通り、こんなことが聞えたら好くねえだらうね。
與助 それはよくないに決まつてゐる。それだから、まあおとなしくしてゐなさいと云ふのだ。
權三 むゝ。(いよ/\悄《しよ》げて。)どうも詰らねえことになつてしまつたな。
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(この時、隣の助十の家でも怒鳴る聲がきこえる。)
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助十 この野郎、どうしても唯は置かねえぞ。
助八 喧嘩なら廣いところへ出て來い。
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(臺所の被れ障子を蹴放して、助八は擂粉木《すりこぎ》を持ちて跳《をど》り出づ。つゞいて助十は出刃庖丁《でばぼうちやう》を持ちて出づ。)
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おかん あら、隣でも大變だよ。
與助 あつちは刃物を特つてゐる。これはあぶない。
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(與助は猿を縁におろして、怖々《こは/″\》ながら留めようとしてゐると、上のかたより願人坊主の雲哲と願哲は商賣に出る姿にて、住吉踊の傘をかつぎて出で、これを見て騷ぐ。)
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雲哲 やあ、やあ、又はじめたのか。
願哲 刃物をふりまはしては劍難《けんのん》だ。
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(助十と助八は捨臺詞《すてぜりふ》にて鬪つてゐる。雲哲と願哲は思案して、權三の家の土間から駕籠を持ち出し、與
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