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(奧よりおかんは新らしい手拭と半紙を持ちて出づ。)
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おかん まあ、待つてください。(權三のふところに手拭と紙を入れる。)おまへさん、達者で歸つて來て下さいよ。
權三 えゝ、縁喜《えんぎ》でもねえ、泣くな、泣くな。すぐに歸つて來るよ。
助八 (それを見て。)あ、おれも忘れた。待つてくれ。待つてくれ。(わが家の奧へかけ込む。)
六郎 (氣がついて。)あ、おれも忘れた。これ、雲哲。このまゝで御番所へは出られない。家《うち》へ行つておれの羽織を取つて來てくれ。
雲哲 大屋さんは相變らず人使ひが暴《あら》いな。
六郎 生意氣なことをいふな。この願人坊主《ぐわんにんぼうず》め、早く行つて來い。
雲哲 あい、あい。(上のかたに去る。)
おかん (權三に。)おまへさんも着物を着かへて行つちやあどうだえ。
權三 繩をほどいて又縛られるのは面倒だ。これでいゝ、これでいゝ。どうでお花見に行くんぢやねえ。
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(家の奧より助八は緡《さし》の錢を持ちて出づ。)
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助八 地獄の沙汰も金次第といふが、身上《しんしやう》ふるつても二百の錢しかねえ。これでも何かの役に立つかも知れねえから、持つて行くがいゝぜ。(助十のふところに押込む。)

助十 唯つた二百ばかりがどうなるものか。見つともねえから止《よ》せ、止せ。第一それをおれに呉れてしまふと、あしたの米を買ふ錢があるめえ。
助八 なに、おれは一日ぐらゐ食はずと生きてゐられらあ。まあ、まあ、持つて行く方がいいよ。
おかん ほんたうに心細くつてならないねえ。(權三に。)おまへさんにも幾らか持たして上げたいんだけれど……。ちよいとお待ちよ。表の質屋へ行つて來るからさ。
權三 そんなことをしてゐると遲くなる。すぐに歸つて來るんだから、錢なんぞは要らねえ、要らねえ。
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(上のかたより雲哲は夏羽織を持ちて出づ。)
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六郎 御苦勞、御苦勞。(羽織をきる。)さつきも云ふ通り、おれもこの年になるが、かういふ事は初めてだ。當年六十歳の初陣《うひぢん》で、なんだか武者震《むしやぶる》ひがして來たようだ。
權三 大將の大屋さんが顫《ふる》へ出しちやあ困るぜ。
助十 どうぞしつかりお頼み申しますよ。
六郎 なに、大丈夫。さあ、威勢よく出陣だ。
彦三郎 皆さん、おねがひ申します。
權三 さあ、繰出《くりだ》せ。
助十 くり出せ。
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(六郎兵衞は先に立ち、助八と雲哲は彦三郎をのせたる駕籠をかきあげると、雲哲は又よろける。助八も一緒によろける。權三と助十は願哲と與助に繩を取られてゆく。おかんは不安らしく見送る。石町《こくちやう》の夕七つの鐘きこゆ。)
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[#地から2字上げ]――幕――

  第二幕

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前の場とおなじ道具。權三と助十の家。第一幕より一月ほど後の朝。
(權三の家では、權三とおかんが酒の膳を前にして、夫婦喧嘩をしてゐる。)
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權三 (片肌ぬいで。)やい、やい、この阿魔《あま》。叩つ殺すからさう思へ。
おかん さあ、殺せるなら殺して御覽。いくら自分の女房でも、横町の黒や斑《ぶち》を殺したのとは譯が違ふからね。おまへさんも勘太郎の二代目になりたいのかえ。
權三 なに、勘太郎の二代目だ。おれがいつ人殺しをした。
おかん 現在あたしをぶち殺さうとしてゐるぢやあないか。勘太郎は赤の他人を殺したんだが、おまへは自分の連れ添ふ女房を殺さうといふのだから、なほ/\罪が深いよ。
權三 べらぼうめ。手前なんぞは横町の黒や斑と大した違《ちげ》えがあるものか。黒や斑はおれの顏をみると、尻《し》つ尾《ぽ》をふつて來るだけも可愛らしいや。
おかん 尻つ尾をふつて來るどころか、あたしなんぞはこんな家へ來て、女房の役からお爨《さん》どんの役まで勤めてゐるんぢやあないか。それでも可愛くないのかよ。一體おまへだの、隣の助十だのといふ奴を唯置くといふ法があるものか。このあひだの時に牢屋へでも投《はふ》り込んでしまへばいゝものを、町内預けにして無事に歸してよこしたお奉行樣の氣が知れないねえ。
權三 あのときに手前は一粒十六|文《もん》といひさうな涙をこぼして、おい/\泣きやあがつたのを忘れたか。おれが町内あづけになつて、無事に歸《けえ》つて來た顏をみると、手前は又むやみに喜んで、子
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