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權三 この野郎、邪魔な奴だ。
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(權三に蹴られて、彦三郎はつまづき倒れる。水の音。一同は見返りもせずに、綱をひいて上のかたへ引返して去《さ》る。)
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六郎 これ、これ、手暴《てあら》いことをするな。(彦三郎を介抱する。)もし、飛んだ失禮をいたしました。
彦三郎 お江戸馴れませぬ者がお取込みのなかへ出まして、わたくしこそ飛んだお邪魔をいたして相濟みません。
六郎 いや、お若いにも似合はず御丁寧の御挨拶で、重々痛み入りました。御覽の通り、けふはこの長屋の井戸換へで混雜してゐるところへ、丁度におまへさんがお出でなすつたので、どうもお氣の毒なことを致しました。店子《たなこ》に代つて家主のわたしがお詫をしますから、どうぞ料簡《れうけん》して遣つてください。おゝ、おゝ、泥だらけになつた。(手拭で彦三郎の膝のあたりを拭いてやる。)
彦三郎 いえ、おかまひ下さりますな。では、おまへ樣がこゝのお家主樣でござりますか。
六郎 はい、はい。こゝは神田の橋本町、その長屋をあづかつてゐる家主の六郎兵衞でございますよ。
彦三郎 おゝ、左樣でござりましたか。
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(この時、以前の長屋の女房と娘、その次に助八と長屋の男三人、與助と子供ふたりが綱をひいて出づ。)
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助八 (彦三郎に。)えゝ、なにをぼんやり突つ立つてゐやあがるのだ。この案山子《かゝし》野郎め。邪魔だ、邪魔だ。
六郎 よそのお方に失禮をするな。おまへの方でよけて行け。馬鹿野郎め。
助八 又叱られたか。
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(水の音。人々はわや/\云ひながら上の方へ引返して去る。)
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六郎 こゝらの長屋にゐる者は我殺《がさつ》な奴等ばかり揃つてゐるので、他國のお方にはお恥かしうございます。して、おまへさんは誰をたづねてお出でなすつた。
彦三郎 お家主樣をおたづね申してまゐりました。
六郎 なに、わたしを尋ねて來た……。いや、それは、それは……。では、まあこゝへおかけなさい。
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(六郎兵衞は先に立ちて、權三の家の縁に腰をかける。)
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六郎 して、おまへさんはどこのお人だね。
彦三郎 大坂からまゐりました。
六郎 大坂からわたしを尋ねて……。では、もしや彦兵衞さんの……。
彦三郎 はい。わたくしはこのお長屋で長年お世話樣になりました小間物屋彦兵衞のせがれ彦三郎と申す者でござります。
六郎 あゝ、彦兵衞さんの息子かえ。(急に顏色を曇らせる。)遠いところをよく出て來なすつた。
彦三郎 (これも聲を曇らせる。)もし、お家主樣。父の彦兵衞はまつたく牢死いたしたのでござりますか。
六郎 いや、どうもお氣の毒なことで、今更なんとも云ひやうがない。手紙にも書いてあげた通り、彦兵衞さんは去年の暮にお召捕になつて、その御吟味中に病氣が出て、この三月に……。(鼻を詰まらせる。)たうとう御牢内で歿《なくな》りましたよ。
彦三郎 その節は色々御厄介になりまして、お禮の申上げやうもござりません。まことに有難うござりました。(涙ながらに手をつく。)御手紙によりますと、父は馬喰町《ばくろちやう》の米屋といふ旅籠屋《はたごや》の隱居所へ忍び込み、六十三歳になる女隱居を殺害して、金百兩をうばひ取つたと申すことでござりますが、それは本當でござりますか。
六郎 (氣の毒さうに。)さあ、彦兵衞さんに限つてそんな事のあらう筈はないと思つてゐたが、御奉行所の嚴しいお調べで本人はたうとう白状したと云ひますよ。
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(上のかたより權三はぶら/\出で來り、この體をみて少し躊躇《ちうちよ》し、やがて拔足をして家のうしろを廻り、下のかたの柳の下に立つて聽いてゐる。)
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彦三郎 それがどうしても本當とは思はれません。わたくしの父は盜みを働くやうな、まして人を殺して金をぬすむやうな、そんな不義非道の人間ではござりません。あまりに御吟味がきびしいので、身におぼえのないことを申立てたのかも知れません。(だん/\激して來る。)もし、おまへ樣。いづれにしてもこれは何かの間違ひに相違ござりません。屹《きつ》と何かの間違ひでござります。
六郎 息子のおまへさんがさう思ひつめるのも無理はないが、この一件
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