あねえ。
助十 手前のやうな判らずやは猿にも劣つてゐるのだ。
權三 まあ、いゝと云ふことよ。兄弟喧嘩ぢやあ、どつちから膏藥代《かうやくだい》を取るわけにも行かねえ。つまり毆られ損だ。止せ、止せ。
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(上のかたより家主六郎兵衞出づ。)
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六郎 これ、これ、みんな何をしてゐるのだ。もう些《ちつ》とだから怠けてはいけない。(上のかたに向つて團扇をあげる。)さあ、さあ、早く引いた、引いた。
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(上のかたより雲哲、願哲をはじめ長屋の人々は綱を持ちて出で來り、再び上のかたへ引返してゆく。)
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六郎 助八。おまへはこの忙がしい最中に猿にからかつて騷いでゐたさうだな。
助八 なに、こつちが猿にからかはれたので……。
六郎 まあ、なんでもいゝから早く行つて、手傳へ、手傳へ。貴樣は長屋で一枚看板の馬鹿野郎だ。
助八 あい、あい。大屋さんに逢つちやあかなはねえ。
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(助八は叱られて、これも早々に上のかたへゆく。)
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おかん 大屋さん。今日はお暑いのに御苦勞樣でございます。
權三 まあ、まあ、こゝへお掛けなせえ。
六郎 (權三を見て。)おゝ、お前はさつきから井戸端へ些とも顏を見せなかつたやうだな。
權三 (ぎよつとして。)え。實は其、すこし用がありまして……。
おかん 早くあやまつておしまひよ。(眼で知らせる。)
權三 まつたく據《よんどころ》ない用がありまして……。
六郎 よんどころない用があつた……。
權三 へえ、急病人が出來まして……。
助十 いや、こいつ呆れた奴だ。もし、大屋さん。だまされちやあいけねえ。そんなことは皆んな嘘ですよ。
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(夫婦はあわてて手をふる。)
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助十 (いよ/\呶鳴る。)えゝ、嘘だ、嘘だ。大うその川獺《かはうそ》だ。奧に樂々と晝寢をしてゐやあがつて、おれが幾度催促に來ても出て來なかつたぢやあねえか。
權三 だから、急病人が出來たと云つてゐるのが判らねえかよ。
助十 その急病人はどこにゐる。
權三 その急病人は……。おれだ、おれだ。
助十 這奴《こいつ》いよ/\呆れた奴だ。朝つぱらから酒を飮んでゐやあがつた癖に、急病人もよく出來た。あんまり人を馬鹿にするな。
おかん そのお酒に中《あた》つたんですよ。
助十 えゝ、なにも彼も嘘だ、嘘だ。
六郎 成程これは嘘らしいぞ。これ、權三。おまへは去年のことを忘れたか。一年に唯《た》つた一度の井戸がへで、家主のおれまでが汗みづくになつて世話を燒いてゐる。そのなかで假病《けびやう》の晝寢なぞをしてゐて、長屋の義理が濟むと思ふか。去年もあれほど叱つて置いたのに、今年も相變らず横着をきめるとは太い奴だ。又、女房も女房だ。さつきちよいと其の生《なま》つ白《ちろ》い顏を出したかと思ふと、もうそれぎりで隱れてしまふとは、揃ひも揃つた横着者め。さあ、さあ、早く出て働け、働け。
夫婦 はい、はい。
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(上のかたにて大勢の呼ぶ聲きこゆ。)
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大勢 それ、引いた。引いた。エンヤラサア。
六郎 (上のかたを見て。)それ、引いて來る。早くしろ、早くしろ。
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(助十は上のかたへ駈けてゆく。權三とおかんもかけ出してゆく。やがて上のかたより以前の如く、雲哲、願哲が先に立ち、長屋の男二人と子供ひとりが綱をひいて出づ。助十と權三とおかんも綱をひいてゐる。この時、下のかたの路地口より小間物屋彦三郎、廿歳ぐらゐの若者、旅すがたにて出づ。)
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助十 さあ、さあ、引け、引け。
權三 引いたり、引いたり。
一同 エンヤラサア。
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(彦三郎は綱をひく人々を避《よ》けながら來るうちに、助十に突きあたる。)
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助十 えゝ、なにをしやあがる。
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(助十に突き退《の》けられて、彦三郎はよろめきながら更に權三に突きあたる。)
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