は南の町奉行所のお係りで、お役人は各奉行ときこえてゐる大岡越前守樣だ。そのお捌《さば》きで落着《らくちやく》したことだから、決して間違ひのあらう筈はないのだ。
彦三郎 さきほどは御吟味中と仰しやりましたが、それではもう落着いたしたのでござりますか。
六郎 實は本人の白状で事件は落着、そのお仕置は獄門ときまつた時に、彦兵衞さんは牢死したのだ。もう何と云つても仕方がない。せめてその死骸を引取つてやりたいと思つて、色々お嘆き申してみたが、重罪人であるから死骸を下げ渡すことは相成らぬといふので、殘念ながらどうすることも出來なかつたのだ。必ず惡く思はないで下さい。
彦三郎 情けないことでござりますな。(泣く。)
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(このあひだに、上のかたよりおかん出づ。權三は眼で招けば、おかんも竊《そつ》と家のうしろをまはつてゆく。權三は何かさゝやけば、おかんは首肯《うなづ》いて、再び下のかたより自分の家のうしろへ廻つてゆく。權三は助十の家の縁に腰をかける。)
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彦三郎 (眼をふいて。)いくら名奉行でも、大岡樣でも、このお捌きは屹《きつ》と間違つて居ります。わたくしの父にかぎりまして、決してそんなことはない筈でござります。どう考へても、それはお奉行樣のお眼違ひでござります。
六郎 (なだめるやうに。)まあ、まあ、落着いて物を云ひなさい。今更おまへが何と云つたところで、お捌きも濟み、本人も死んでしまつたものを、どうにも仕樣があるまいではないか。
彦三郎 勿論唯今となりましては、たとひ何と申したところで死んだ父が生き返るわけではござりません。それはよんどころない不運と諦めも致しませうが、せめては無實の罪といふことをお上へ申立てまして、父彦兵衞の惡名を清めたうござります。お家主樣。わたくしが一生のおねがひでござりますから、どうぞお力添へをねがひます。御承知の通り、父は大坂生れ、わたくしも御當地は初めてで、右を見ても左を見ても、誰ひとり頼みになる人はござりません。もし、お家主樣。(手をあはせる。)お願ひでござります。お願ひでござります。
六郎 あゝ、そんなことを云つて泣かせてくれるな。(眼をふく。)折角のおまへの頼みだ。わたしも何うかして遣りたいのは山々だが、こればかりはどうも困つたな。(かんがへてゐる。)
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(このあひだに、家の奧よりおかんがそつと出で、そこにある團扇を把《と》つて、氣のつかぬやうに六郎兵衞と彦三郎を煽いでゐる。上のかたより助十は汗をふきながら出づ。)
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助十 あゝ、あつい、暑い。
權三 (小聲で。)おい、おい。
助十 なんだ。
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(權三は彦三郎を指さして眼で知らせれば、助十もうなづいて、竊《そつ》と家のうしろを廻つてゆく。)
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彦三郎 もし、心ばかりは逸《はや》つても、わたくしは若年者《じやくねんもの》、殊に御當地の勝手は知れず、なんとも致方がござりません。おまへ樣によい御分別はござりますまいか。
六郎 まあ、待つてくれ。わたしも頻《しき》りに考へてゐるのだが、これはなか/\むづかしい。
彦三郎 むづかしいと申しても、どうしても此儘では濟まされません。大坂を立ちます時にも、お父さんに限つてそんなことのあらう筈がないから、わたしがどんな難儀をしても、屹とお父さんの無實を訴へて來ると、母や弟にも立派に約束して參つたのでござります。
六郎 さうやかましく云はれると、氣が散つてならない。まあ靜かにして考へさせてくれなければいけない。
彦三郎 (せいて。)このまゝのめ[#「のめ」に傍点]/\と戻りましては、母にも弟にも會はす顏がござりません。わたくしを生かすも殺すも、おまへ樣のお心一つでござります。
六郎 むゝ、判つた、判つた。よく判つてゐます。それだからわたしも色々に工夫を凝《こら》してゐるのだ。(上の方に向つて。)おい、おい。そつちの井戸がへも少し待つてくれ。さうざうしいと、どうも好い智慧が出ない。
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(六郎兵衞は又かんがへてゐるを、彦三郎は待ち兼ねるやうに眺めてゐる。おかんは貰ひ泣の眼をふいてゐる。)
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權三 (小聲で。)どうだい。いつそ思ひ切つて云つてみようか。
助十 だが、あぶねえ。うつかりした事を云つて、飛んだ係り合ひになると詰らねえぜ。
權三 それもさうだが……。(考へる。
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