へ消えるように姿をかくした。彼女が我が家へはいるのを見とどけて、千枝松はぬき足をして隣りの陶器師の門《かど》に立った。年寄り夫婦は早く寝付いてしまったらしく、内には物の音もきこえなかった。彼は作り声をして呶鳴った。
「愛宕《あたご》の天狗の使いじゃ。戸をあけい」
 表の戸を破れるばかりに二、三度たたいて、千枝松は一目散に逃げ出した。

    二

「あれ、鴉《からす》めがまた来おりました」
 あくる朝は美しく晴れて、大海のようにひろく碧《あお》い空の下に、柿のこずえが高く突き出していた。その紅い実をうかがって来る鴉のむれを、藻は竹縁《ちくえん》に出て追っていた。
「はは、鴉めがまた来おったか。憎い奴のう。が、とても追い尽くせるものでもあるまい。捨てて置け」と、父の行綱は皺だらけになった紙衾《かみぶすま》を少し掻いやりながら、蘆《あし》の穂綿のうすい蒲団の上に起き直った。
「千枝ま[#「ま」に傍点]が見えたら鳥おどしなと作って貰いましょ」
「それもよかろうよ」と、父は狭い庭いっぱいの朝日をまぶしそうに仰ぎながらほほえんだ。「夜はもう火桶《ひおけ》が欲しいほどじゃが、昼はさすがに暖かい。
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