孝行なそなたが夜ごとの清水詣で、止めても止まるまいと思うて、心のままにさせて置くが、これからの夜はだんだん寒くなる。露も深くなる。風邪ひかぬように気をつけてくれよ。夏から秋、秋から冬の変わり目はとかく病人の身体にようないものじゃ。いっそ冬になり切ってしもうたら、おれも起きられるようになろうも知れぬ。あまり案じてたもるなよ。おれの手足がすこやかになったら、太刀の柄《つか》巻きしても、雀弓《すずめゆみ》の矢を矧《は》いでも、親子ふたりの口すぎには事欠くまい。はは、今すこしの辛抱じゃ」
「あい」
 柿のこずえには大きい鴉が狡猾《こうかつ》そうな眼をひからせて、尖ったくちばしを振り立てながら枝から枝へと飛び渡っていたが、藻はもう手をあげて追おうともしなかった。彼女は父の前に手をついて、おとなしくうつむいていた。くずれかかった竹縁の下では昼でもこおろぎが鳴いていた。
 父の行綱は今こそこんなにやつれ果てているが、七年前は坂部庄司蔵人行綱《さかべのしょうじくらんどゆきつな》と呼ばれて、院の北面《ほくめん》を仕《つこ》うまつる武士であった。ある日のゆうぐれ、清涼殿のきざはしの下に一匹の狐があらわれた
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