のうちに千枝松が自分ぎめをしていたに過ぎないのである。この場合、彼は藻にむかって正面からその違約を責める権利はなかった。しかし彼は悲しかった。口惜しかった。腹立たしかった。どう考えても藻を宮仕えに出してやりたくなかった。
「その身の出世というても、出世するばかりが人間の果報でもあるまいぞ。奉公などやめにしやれ」と彼は率直に言った。
藻はなんにも言わなかった。
「いやか。どうでも関白殿の屋形へまいるのか」と、千枝松は畳みかけて言った。「わしの叔母御のところへ来て烏帽子を折り習いたいというたは嘘か。お前はわしに偽《いつわ》ったか」
彼はこの問題をとらえて来て、女の違約を責める材料にしようと試みたが、それは手もなく跳ね返された。
「そりゃ御奉公しようとも思わぬ昔のことじゃ」
「その昔を忘れては済むまい」
暗いなかでは女の顔色を窺うことはできないので、千枝松はじれて藻の手をつかんだ。そうして隣りの陶器師の門までひいてゆくと、炉の火はまばらな簾を薄紅く洩れて、女の顔が再び白く浮き出した。千枝松はその顔をのぞき込んで言った。
「これほど言うてもお前はきかぬか。わしの頼みを聞いてくれぬか。のう
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