になると、笠の影も草履の音も吹き消されたように消えてしまって、よくよくの信心者でも、ここまで夜詣りの足を遠く運んで来る者はなかった。
 その寂しい夜の坂路を、二人はたよりなげにたどって来るのであった。月のひかりは高い梢にささえられて、二人の小さい姿はときどきに薄暗い蔭に隠された。両側の高藪《たかやぶ》は人をおどすように不意にざわざわと鳴って、どこかで狐の呼ぶ声もきこえた。
「のう、藻《みくず》」
「おお、千枝《ちえ》ま[#「ま」に傍点]よ」
 男と女とはたがいにその名を呼びかわした。藻は少女の名で、千枝松は少年の名であった。用があって呼んだのではない、あまりの寂しさに堪えかねて、ただ訳もなしに人を呼んだのである。二人はまた黙ってあるいた。
「観音さまの御利益《ごりやく》があろうかのう」と、藻はおぼつかなげに溜息をついた。
「無うでか、御利益がのうでか」と、千枝松はすぐに答えた。「み仏を疑うてはならぬと、叔母御が明け暮れに言うておらるる。わしも観音さまを信仰すればこそ、こうしてお前と毎夜連れ立って来るのじゃ」
「それでも父《とと》さまはこの春、この清水詣でに来たときに、三年坂で苔《こけ》
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