けに一人の供をも連れないで何処《いずこ》へ行くつもりであったろう。千枝太郎にはとてもその想像が付かなかった。さらに不思議なのは、その車が彼の姿をみると俄に向きを変えてしまったことである。もう一つ彼をおびやかしたのは、すだれのうちから響いた女の声であった。
わらわに恋するなど及ばぬこと――それが強い意味を含んで千枝太郎の胸にこたえた。恋か何か知らないが、彼は初めて衣笠の名を聞いたときから――初めて衣笠の顔を見た時から――彼の心はその方へ怪しく引き寄せられてゆくように思われた。彼の心は知らずしらずに妖麗の玉藻を離れて、端麗の衣笠の方へ移っていった。その秘密、彼自身すらもまだはっきりとは意識していない内心の秘密を車のぬしはとうに見破っているらしい。一種の羞恥心と恐怖心とがひとつになって、千枝太郎はもうその車を追いかける勇気を失った。彼は石のように突っ立って、だんだんに遠ざかっていく車の黒い影をいたずらに見送っていた。
車のぬしは確かに衣笠であろうか。あるいは自分の見損じで、彼女はやはり玉藻ではあるまいか。衣笠の顔と玉藻の顔と、衣笠の声と玉藻の声と、それが一つにこぐらかって、混乱した千枝太
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