こを出た。今夜は薄い月が行く手を照らして、もう木枯らしとでもいいそうな寒い風が時どきに木の葉を吹きまいて通った。千枝太郎はその風にさからって森の方へ急いで行った。大きい杉のかげに身を寄せて、彼はゆうべと同じようにふた※[#「※」は「日へんに向」、読みは「とき」、212−5]《とき》ほども待ち暮らしたが、折りおりに落葉のころげてゆく音ばかりで、土の上には犬一匹も通らなかった。
「今夜も無駄か」
 彼は失望してもう引っ返そうかと思っている時に、京の方角から牛車の軋《きし》る音がぎいぎいと遠くきこえた。木蔭からそっと首をのばして窺うと、牛飼いもない一|輌《りょう》の大きい車が牛のひくままにこちらへ徐《しず》かにきしって来た。薄い月は高い車蓋《やかた》を斜めにぼんやりと照らしているばかりで、低く這って来る牛の影も、月に背いた車の片側も、遠くからはっきりとは見えないので、さながら牛のない片輪車が自然に揺らめいて来るかとも怪しまれた。千枝太郎は身を固くして、この怪しい車の音に耳を澄ましていた。
 車はだんだんに近づいて、棟の金物《かなもの》の薄くきらめくのも見えるほどになった時に、もう待ち切れなく
前へ 次へ
全285ページ中249ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング