になってきたので、彼は路ばたの地蔵尊《じぞうそん》の前にべったり坐って、大きい息をしばらく吐いていた。そうして、見るともなしに見あげると、澄んだ大空には月のひかりが皎々《こうこう》と冴えて、見渡すかぎりの広い田畑も薄黒い森も、そのあいだにまばらに見える人家の低い屋根も、霜の光りとでもいいそうな銀色の靄《もや》の下に包まれていた。汗の乾かない襟のあたりには夜の寒さが水のように沁みてきた。
狐の啼く声が遠くきこえた。
「狐にだまされたのかな」と、千枝松はかんがえた。さもなければ盗人《ぬすびと》にさらわれたのである。藻のような美しい乙女《おとめ》が日暮れて一人歩きをするというのは、自分から求めて盗人の網に入るようなものである。千枝松はぞっとした。
狐か、盗人か、千枝松もその判断に迷っているうちに、ふとかの陶器師のことが胸に泛《う》かんできた。あの婆め、とうとう藻をそそのかして江口《えぐち》とやらへ誘い出したのではあるまいかと、彼は急に跳《おど》りあがって又一散に駈け出した。藻の門《かど》の柿の木を見た頃には、彼はもう疲れて歩かれなくなった。
「藻よ。戻ったか」
垣の外から声をかけると、
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