うとう清水までひと息にゆき着いたが、堂の前にも小さい女の拝んでいるうしろ姿はみえなかった。念のために伸びあがって覗くと、うす暗い堂の奥には黄色い灯が微かにゆらめいて、堂守《どうもり》の老僧が居睡りをしていた。千枝松は僧をよび起こして、たった今ここへ十四、五の娘が参詣に来なかったかと訊いた。
僧は耳が疎《うと》いらしい。幾度も聞き直した上で笑いながら言った。
「日が暮れてから誰が拝みに来ようぞ。この頃は世のなかが閙《さわ》がしいでな」
半分聞かないで、千枝松は引っ返してまた駈け出した。言い知れない不安が胸いっぱいに湧いてきて、彼は夢中で坂を駈け降りた。往くも復《かえ》るもひとすじ道であるから、途中で行き違いになろう筈はない。こう思うと、彼の不安はいよいよ募ってきた。彼はもう堪《た》まらなくなって、大きい声で女の名を呼びながら駈けた。
「藻よ。藻よ」
彼の足音に驚かされたのか、路ばたの梢から寝鳥《ねとり》が二、三羽ばたばたと飛び立った。人間の声はどこからも響いてこなかった。夢中で駈けつづけて、長い田圃路《たんぼみち》の真ん中まで来た時には、彼の足もさすがに疲れてすくんで、もう倒れそう
前へ
次へ
全285ページ中21ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング