安なので、千枝松は帰るときに陶器師の店を又のぞくと、翁はさっきと同じところに屈《かが》んで、同じような姿勢で一心に壺をつくねていた。婆の姿は見えなかった。

 風のない秋の日は静かに暮れて、薄い夕霧が山科《やましな》の村々に低く迷ったかと思うと、それが又だんだんに明るく晴れて、千枝松がゆうべ褒めたような冴えた月が、今夜もつめたい白い影を高く浮かべた。藻が門《かど》の柿の葉は霜が降ったように白く光っていた。
「藻よ。今夜はすこし遅うなった。堪忍しや」
 千枝松は息を切って駈けて来て、垣の外から声をかけたが内にはなんの返事もなかった。彼は急いで二、三度呼びつづけると、ようように行綱の返事がきこえた。藻は小半※[#「※」は「日へんに向」、読みは「とき」、22−12]《こはんとき》も前に家を出たというのであった。
「ほう、おくれた」
 千枝松はすぐにまた駈け出した。その頃の山科から清水へかよう路には田畑が多いので、明るい月の下に五|町《ちょう》八町はひと目に見渡されたが、そこには藻はおろか、野良犬一匹のさまよう影も見えなかった。千枝松はいよいよ急《せ》いてまっしぐらに駈けた。駈けて、駈けて、と
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