さるると、御歌所《おうたどころ》の大納言のもとから御沙汰があったそうな。そこで叔父御が言わしゃるには、おれも長年烏帽子こそ折れ、腰折れすらも得《え》詠《よ》まれぬは何《なん》ぼう無念じゃ。こういう折りによい歌作って差し上げたら、一生安楽に過ごされようものをと、笑いながらも悔んでいられた」
「ほう、そんなことは初めて聞いた」と、藻も眉をよせた。「なるほど、独り寝の別れ、こりゃおかしい。どんな名人上手でも、世にためしのないことは詠まれまい。ほんに晦日《みそか》の月というのと同じことじゃ」
「水の底で火を焚くというのと同じことじゃ」
「木にのぼって魚を捕るというのと同じことじゃ」
二人は顔をみあわせて、子供らしく一度に笑い出した。その笑い声を打ち消すように、どこやらの寺の鐘が秋の空に高くひびいてうなり出した。
「おお、もう午《ひる》じゃ」
藻がまずおどろいて起《た》った。千枝松もつづいて起った。二人は慌ててそこらの薄を折り取って、ひとたばずつ手に持って帰った。千枝松は藻と門《かど》で別れる時にまた訊いた。
「けさは隣りの婆が見えなんだか」
藻は誰も来ないと言った。それでもまだなんだか不
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