「そうであろうのう」と、千枝松は翁の手に持っている壺をながめていた。婆は憎いが、この翁にむかっては彼は喧嘩を売るわけにはいかなかった。それでも彼はおどすように声をひそめて訊いた。
「この頃ここらへ天狗が出るという。ほんかな」
「なんの」と、翁はまた笑った。「ここらに住んでいる者はみんな善い人ばかりじゃ。悪い者は一人もない。天狗さまのお祟《たた》りを受けよう筈がないわ。ははははは。鬼の天狗のというても、大抵は人間のいたずらじゃ。ゆうべもわしの家の戸をたたいて、天狗じゃとおどかした奴があった」
「ほんに悪いことをする奴じゃ」と、婆も奥から声をかけた。「今度またいたずらをしおったら、すぐに追い掛けて捉《とら》まえて、あの鎌で向こう脛を薙《な》いでくるるわ」
「天狗がつかまるかな」と、千枝松はあざけるように笑った。
「はて、天狗じゃない、人間じゃというに……。和郎《わろ》もそのいたずら者を見つけたら、教えてくりゃれ」と、婆は睨むような白い眼をして言った。
 千枝松はすこし薄気味悪くなって、もしや自分のいたずらということを覚《さと》られたのではないかとも思った。しかし彼は弱味を見せまいとして、ま
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