》えなかった。彼はその晩自分の家へ逃げて帰っても、まだ苛《いら》いらしてよく眠られなかった。よもやとは思うものの、どうも安心ができないので、彼はあくる朝、叔父があきないに出るのを見送って、すぐにとなり村の藻の家へたずねて来た。
 来ると、彼はまず隣りの陶器師の店をのぞいた。店の小さい窯《かま》の前には人の善さそうな陶器師の翁《おきな》が萎《な》えな烏帽子をかぶって、少し猫背に身をかがめて、小さい莚の上で何か壺のようなものを一心につくねていた。日よけに半分垂れたすだれの外には、自然に生えたらしい一本の野菊がひょろひょろと高く伸びて、白い秋の蝶が疲れたようにその周《まわ》りをたよたよと飛びめぐっていた。婆は奥のうす暗いところで麻を績《う》んでいた。
「爺《じい》さま。よい天気じゃな」
 千枝松はわざと声をかけると、翁は手をやすめて振り向いた。そうして、白い長い眉を皺めながらにこにこ笑った。
「おお、となり村の千枝ま[#「ま」に傍点]か。ほんによい秋日和《あきびより》じゃよ。秋も末になると、いつも雨の多いものじゃが、ことしは日和つづきで仕合わせじゃ。わしらのあきないも降ってはどうもならぬ」

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