う》をにらんでいた。そうして、呻《うめ》くようにただひと言いった。
「不思議じゃのう」
 それは藻が屋形の四足門を送り出された頃であった。

    二

 千枝松は自分の家へいったん帰って、日のかたむく頃にまた出直して来た。彼は藻が見違えるような美しい衣《きぬ》を着て、見馴れない侍に連れてゆかれるのを見て、驚いて怪しんでその子細を聞きただそうとしたが、藻は彼には眼もくれないで行き過ぎてしまった。侍は扇で彼を打った。くやしいと悲しいとが一つになって、彼の眼にはしずくが宿った。彼は藻のひと群れのうしろ姿が遠くなるまで見送っていたが、それからすぐに藻の家へ行った。藻が関白の屋形へ召されたことを父の行綱から聞かされて、彼もようやく安心したが、屋形へ召されてからさてどうしたか、彼の胸にはやはり一種の不安が消えないので、家《うち》へ帰っても落ち着いていられなかった。
「病みあがりじゃ。もう日が暮るるにどこへゆく」と、叔母が叱るのをうしろに聞き流して、千枝松はそっと家をぬけ出した。
 もう申《さる》の刻を過ぎたのであろう。綿のような秋の雲は、まだその裳《もすそ》を夕日に紅く染めていたが、そこらの木蔭からは夕暮れの色がもうにじみ出してきて、うすら寒い秋風が路ばたのすすきの穂を白くゆすっていた。千枝松はけさとおなじように枯枝を杖にしてたどって来ると、陶器師の翁は門《かど》に立って高い空をみあげていた。
「千枝ま[#「ま」に傍点]よ。また来たか。藻はまだ戻るまいぞ」と、翁は笑いながら言った。
「まだ戻らぬか」と、千枝松は失望したように翁の顔を見つめた。「関白殿の屋形へ召されて、今頃まで何をしているのかのう」
「ここから京の上《かみ》まで女子の往き戻りじゃ。それだけでも相当のひまはかかろう。どうでも藻に逢いたくば、内へはいって待っていやれ。暮れるとだんだん寒うなるわ」
 翁は両手をうしろに組みあわせながら、くさめを一つして簾《すだれ》のなかへ潜《くぐ》ってはいった。千枝松も黙って付いてはいると、婆は柴を炉にくべていた。
「病みあがりに朝晩出あるいて、叔母御がなんにも叱らぬかよ」と、婆はけむそうな眼をして言った。「おまえも藻にはきつい執心《しゅうしん》じゃが、末は女夫《めおと》になる約束でもしたのかの」
 千枝松の顔は今燃え上がった柴の火に照らされて紅《あか》くなった。彼は煙りを避けるよ
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