ものをと、その当時にもいささか悔む心のきざしたのを、年月《としつき》の経つにつれて忘れてしまった。それが今度の歌から誘い出されて、北面行綱の名が忠通の胸によみがえった。まして自分の眼の前には、美しい乙女が泣いて父の赦免を訴えているではないか。忠通もおのずと涙ぐまれた。
「そちの父は勅勘の身じゃ。忠通の一存でとこうの返答はならぬが、その孝心にめでて願いの趣きは聞いて置く。時節を待て」
この時代、関白殿下から直接にこういうお詞《ことば》がかかれば、遅かれ速かれ願意のつらぬくのは知れているので、藻は涙を収めてありがたくお礼を申し上げた。御前の首尾のよいのを見とどけて、清治は藻に退出をうながした。
「また召そうも知れぬ。その折りには重ねてまいれよ」
忠通は当座の引出物《ひきでもの》として、うるわしい色紙短冊と、紅葉《もみじ》がさねの薄葉《うすよう》とを手ずから与えた。そうして、この後ともに敷島の道に出精《しゅっせい》せよと言い聞かせた。藻はその品々を押しいただいて、清治に伴われて元の庭口からしずかに退出した。
「さかしい乙女じゃ、やさしい乙女じゃ。独り寝の歌をささげたも、身の誉れを求むる心でない。父の赦免を願おうためか。さりとは哀れにいじらしい」と、忠通は彼女のうしろ姿をいつまでも見送って再び感歎の溜息を洩らした。
信西は黙っていた。定めてなんとか相槌《あいづち》を打つことと思いのほか、相手は固く口を結んでいるので、忠通はすこし張り合い抜けの気味であった。彼は信西の返事を催促するように、また言った。
「あれほどの乙女を草の家《や》に朽ちさするはいとおしい。眉目形《みめかたち》といい、心ばえといい、世にたぐいなく見ゆるものを……。のう、入道。あれをわが屋形に迎い取って教え育て、ゆくゆくは宮仕えをもさしょうと思うが、どうであろうな」
信西は眼をとじて黙っていた。彼の険しい眉は急に縮んだかと思われるように迫ってひそんで、ひろい額《ひたい》には一本の深い皺を織り込ませていた。彼が大事に臨んで思案に能《あた》わぬ時に、いつもこうした物凄い人相を現わすことを忠通もよく知っていた。知っているだけに、なんだか不思議にも不安にも思われた。
「入道。どうかおしやれたか」
重ねて呼びかけられて、信西は初めて眼をひらいたが、何者をか畏《おそ》るるようにその眼を再び皺めて、しばらくは空《く
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