た。その時に彼は養母に注意した。
「おまへさんも再びこの商売をなさるな。」
「誰がこんなことをするものかね。」と、養母は身ぶるひするやうに云つた。
吉次郎が左官になつたのはその後のことである。
こゝまで話して来て、鈴木有年は一と息ついた。三人の前に据ゑてある火鉢の炭も大方は白い灰になつてゐた。
「なんでもその鰻といふのは馬鹿に大きいものであつたさうです。」と、有年は更に附加へた。「伯父の手を三まきも巻いて、まだその尾のさきで脾腹を打つたといふのですから、その大きさも長さも思ひやられます。打たれた跡は打身のやうになつて、今でも暑さ寒さには痛むといふことです。」
それから又色々の話が出て、馬琴と有年とがそこを出たのは、その夜ももう四つ(午後十時)に近い頃であつた。風はいつか吹きやんで、寒月が高く冴えてゐた。下町の家々の屋根は霜を置いたやうに白かつた。途中で有年にわかれて、馬琴はひとりで歩いて帰つた。
「この話を斎藤彦麿に聞かしてやりたいな。」と、馬琴は思つた。「彦麿はなんといふだらう。」
斎藤彦麿はその当時、江戸で有名の国学者である。彼は鰻が大すきで、毎日殆どかゝさずに食つてゐた
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