の頃の寄席は繁昌したのである。時に多少の盛衰はあったが、私の聞いているところでは、明治時代の寄席は各区内に四、五軒乃至六、七軒、大小あわせて百軒を越えていたという。その中でも本郷の若竹亭、日本橋の宮松亭を第一と称し、他にも大きい寄席が五、六十軒あった。江戸以来、最も旧い歴史を有しているのは、私の近所の万長亭であると伝えられていた。私は子供の時からしばしばこの万長亭へ聴きに行ったので、江戸時代の寄席はこんなものであったかと云う昔のおもかげを想像することが出来たのである。
寄席の種類は色物席と講談席の二種に分かれていた。色物とは落語、人情話、手品、仮声《こわいろ》、物真似、写し絵、音曲のたぐいをあわせたもので、それを普通に「寄席」というのである。一方の講談席は文字通りの講談専門で、江戸時代から明治の初期までは講釈場と呼ばれていたのである。寄席は原則として夜席、すなわち午後六時頃から開演するのを例としていたが、下町には正午から開演するものもあった。これを昼席と称して、昼夜二回興行である。但し昼夜の出演者は同一でないのが普通であった。講談席は大抵二回興行と決まっていた。
寄席の木戸銭は普通
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