三銭五厘、廉いのは三銭乃至二銭五厘、円朝の出演する席だけが四銭の木戸銭を取ると云われていたが、日清戦争頃から次第に騰貴して、一般に四銭となり、五銭となり、以後十年間に八銭又は十銭までに騰《あが》った。ほかに座蒲団の代が五厘、烟草盆が五厘、これもだんだんに騰貴して、一銭となり、二銭となったので、日露戦争頃に於ける一夕の寄席の入費は木戸銭と蒲団と烟草盆あわせて、一人十四、五銭となった。中入りには番茶と菓子と鮨を売りに来る。茶は土瓶一個が一銭、菓子は駄菓子や塩煎餅のたぐいで一個五厘、鮨は細長い箱に入れて六個三銭であったが、鮨を売ることは早く廃《すた》れた。
 東京電燈会社の創立は明治二十年であるが、その電燈が一般に普及されるようになったのは十数年の後であって、大抵の寄席は客席に大ランプを吊り、高坐には二個の燭台を置いていた。したがって、高坐に出ている芸人は途中で蝋燭の芯《しん》を切らなければならない。落語家などが自分の話をつづけながら蝋燭の芯を切るのは頗るむずかしく、それが満足に出来るようになれば一人前の芸人であると云われていた。今から思えば、場内は薄暗かったに相違ないが、その時代の夜は世間
前へ 次へ
全56ページ中51ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング