の劇化がしばしば行なわれたにも拘らず、その歿後には一向に舞台にのぼらなくなった。それを話す人がこの世にいなくなっては、興行価値が乏しい為であろうか。その人去った後は、その続き話も自然に忘れられた為であろうか。実際、円朝の話も大かた忘れられて、その代表的作物として「塩原多助」「牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」等が舞台の上にも繰り返され、一般の人にも記憶されているに過ぎない。
五 団十郎の円朝物
以上列挙したところに拠ると、大劇場で円朝物を上演したのは、ほとんど五代目菊五郎の一手専売というべきである。それは人情話の性質上、すべてが世話狂言式の物であるから、団十郎や左団次の出し物には適しない。もう一つには、菊五郎と違って団十郎らは、人情話の脚色物などを喜ばなかった為でもある。
しかし団十郎らも全く円朝物に手を着けないわけでもなかった。左団次は前にも云った通り、菊五郎の安中草三に附き合って、恒川半三郎の役を勤めている。猶その以前、即ちかの「塩原多助」「牡丹燈籠」などが菊五郎によって上演されない頃、明治十九年新富座一月興行に於いて団十郎と左団次は已《すで》に円朝物を上演しているのである
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