少し用があるから若い者をみんな呼んで来てくれ。
庄八 はい、はい。(引っ返して去る。)
半七 あいつは何といいますね。
伝兵衛 庄八と申します。
半七 ここの家はお冬どんという小綺麗な仲働きがいる筈だ。それはどうしました。
伝兵衛 お冬は昨晩から気分が悪いと申しまして、奥の四畳半に臥せって居ります。
半七 その四畳半は女中部屋かえ。
伝兵衛 女中部屋はなにぶん狭うございますので、おかみさんの指図で奥の小座敷に寝かしてございます。
半七 むむ、そうか。(うなずく。)時にさっき頼んだはずの湯も水もいまだに持って来てくれねえのか。あの番頭め、駈落ちでもしやあしねえか。
十右衛 御冗談を……。しかし遅いな。(弥助に。)これ、和吉はどうしているのか、見て来なさい。
弥助 はい、はい。
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(弥助は起って奥へはいろうとする時、出逢いがしらに和吉は盆の上に湯呑を乗せていず。)
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弥助 ええ、あぶなく突き当るところだ。親分さんがお待ち兼ねだよ。
和吉 どうも遅くなりました。(半七の前に盆を持ってゆく。)
半七 ひどく待たせたじゃあねえか。おれの註文を聴いてから玉川まで水を汲みに行ったわけじゃああるめえ。
和吉 台所の薬鑵があいにく冷めて居りましたので、沸かさせて居りました。
半七 (湯呑を取る。)おい、これを飲んでもいいかえ。
和吉 え。
半七 毒でもはいっていやあしねえか。
和吉 飛んだことを……。
半七 はははははは。(湯を呑む。)
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(上のかたより庄八、長次郎を先に立てて、和泉屋の若い者六人いず。奥よりも若い者四人いず。)
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十右衛 どうだ。みんな揃ったかな。
伝兵衛 (見わたして。)はい。これでみんな揃いました。
半七 こっちに八匹、そっちに四匹……。(見まわして。)むむ、これで犬っころが皆んな鼻を揃えたわけですね。
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(若い者等はおどろいて顔をみあわせる。)
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半七 なんだ、なんだ、どいつもこいつも脂《やに》を嘗めさせられた蝦蟇《ひきがえる》のような面《つら》をするな。ねえ、もし、大和屋の旦那。具足町で名高けえものは清正公《せいしょうこう》さまと和泉屋だと云うくれえに、江戸中にも知れ渡っている御大家だが、失礼ながら随分不取締だとみえますね。ねえ、そうでしょう。主殺しをするような太てえ奴等に、三度の飯を食わして、一年いくらの給金をやって、こうして大切に飼って置くんだからね。
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(人々はびっくりして、再び顔をみあわせる。)
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十右衛 (あわてて。)まあ、お静かにねがいます。ここは店先、表は往来でございますから。
半七 そんなことは知れていらあ。(せせら笑う。)だれに聞えたって構うものか。どうせ引きまわしの出る家《うち》だ。
十右衛 もし、親分。
半七 いいってことよ、うるせえな。(一同を睨みまわして。)やい、こいつ等。よく聞け。(羽織をぬぐ。)てめえたちは揃いも揃って不埒な奴等だ。おれがさっきから犬っころと云ったのも無理はあるめえ。大それた主殺しを朋輩に持ちながら、知らん顔をして一つ店に奉公して一つ釜の飯を食っているという法があると思うか。ええ、白ばっくれるな。この中に主殺しのはりつけ[#「はりつけ」に傍点]野郎が一匹まぐれ込んでいるということは、おれがちゃんと睨んでいるのだ。多寡が守っ子みたような小阿魔《こあま》ひとりのいきさつ[#「いきさつ」に傍点]から、大事の主人を殺すというような、そんな心得違げえの犬畜生をこれまで平気で飼って置いたのがそもそもの間違げえで、ここの主人もよっぽどの明きめくらだ。もし、大和屋の旦那。おまえさんの眼玉もちっと曇っているようだから、物置へいってあく[#「あく」に傍点]の水で二三度洗って来ちゃあどうですね。
十右衛 いや、もう、どんなに叱られても一言はございません。併し親分、お願いでございますから何分お静かに……。
半七 お前さんにゃあお気の毒かも知れねえが、わっしに取っちゃあ仕合せだ。ここで主殺しの科人《とがにん》を引っくくって連れていけば、八丁堀の旦那にもいいみやげが出来るというものだ。(また呶鳴る。)さあ。こいつ等。生けしゃあしゃあとした面をしていても、どいつの腹が白いか黒いか、おれがもう睨んでいるのだ。てめえたちの主人のような明きめくらだと思うと、ちっとばかり的《あて》が違うぞ。なん時両方の腕がうしろへ廻っても、決しておれを怨むな。飛んだ梅川の浄瑠璃で、縄かける人が怨めしいなんぞと詰まらねえ愚痴をいうな。嘘や冗談じゃあねえ。(ふところから十手を出す。)これを見て、神妙に覚悟をしていろ。
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(十右衛門は堪《たま》らなくなったように半七のそばに来る。)
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十右衛 もし、親分。おまえさんはさっきから大分酔っていなさるようだから、まあ奥へ行ってちっとお休みなすってはどうでございます。店先であんまり大きな声をして下さると、世間に対してまったく迷惑いたしますから、兎も角もあっちへお出で下さい。これ、和吉。親分を奥へ御案内申せ。
和吉 はい、はい。(おずおず進み寄る。)もし、どうぞ奥へ……。わたくしが御案内申します。
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(和吉は半七の手を取ろうとすると、半七はその横面をいきなり撲りつける。)
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半七 ええ、なにをしやあがるんだ。手前たちのような磔《はりつけ》野郎のお世話になるんじゃあねえ。やい、やい、なんで人の面を睨みやあがるんだ。てめえ達はみんな主殺しの同類だからはりつけ[#「はりつけ」に傍点]野郎だと云ったのがどうした。手前たちも知っているだろう。(和吉の顔をきっと見る。)はりつけ[#「はりつけ」に傍点]になる奴は裸馬《はだかうま》にのせられて、江戸中を引きまわしになるんだ。それから鈴ガ森か小塚っ原で高い木の上へくくり付けられると、突き手が両方から長い槍をしごいて、科人の眼のさきへ突き付けて、ありゃありゃと声をかける。それを見せ槍というのだ、よく覚えておけ。見せ槍が済むと、今度はほんとうに右と左の腋の下から何遍となく、ずぶりずぶりと突き上げるのだ。
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(この怖ろしい刑罰の説明を聴かされて、人々は聴くに堪えないように息をのんで身をすくめている。十右衛門も眉をひそめ、和吉も蒼くなって黙っている。)
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半七 さあ、これだけ云って聞かせたら、血のめぐりの悪い手前たちも大抵わかったろう。さっきから無暗にしゃべったので、がっかりしてしまった。奥山の豆蔵だって、これだけしゃべれば五十や六十の銭《ぜに》はかせげるのだ。ほんとうにばかばかしい。店をふさげて気の毒だが、おらあここにちっとのあいだ寝かして貰うよ。
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(半七はそこにごろりと寝転んでしまう。人々はほっとして又もや顔をみあわせる。)
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伝兵衛 (小声で。)もし、どうしたものでございましょうね。
十右衛 (顔をしかめる。)どうも飛んだ人を連れて来てしまった。まあ、仕方がないから、暫くこのままにしてそっと置くよりほかはあるまいよ。正気なら真逆《まさか》にこうでもあるまいが、なにしろ酔っているのだから手の着けようがない。
弥助 (おなじく小声で。)それにほかの人とは違いますからね。
十右衛 そうだ、そうだ。それだから猶さら始末が悪い。眼のさめるまでまず斯うして置け。(人々に。)みんなももう用はないから、ここには構わずにめいめいの仕事をしなさい。
一同 はい、はい。
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(庄八、長次郎をはじめ、若い者等は皆それぞれに分れて去る。伝兵衛は帳場に戻り、弥助も帳面と十露盤を取る。)
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十右衛 どれ、奥へ行って旦那やおかみさんに逢って来ましょうか。まったく飛んだ人を連れて来て、みんなにも気の毒なことをしてしまった。わたしも悪気でしたことではないから、まあ堪忍してください。
伝兵衛 どうも恐れ入ります。
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(十右衛門は寝ている半七をみかえり、そこに脱いである羽織を取って半七の上に着せかけ、そのまま奥に入る。和吉は半七の枕もとにある茶盆と湯呑をそっと取りにゆき、その寝顔をじっと眺めて、やがてしずかに奥へゆく。半七は少しく身を起して、そのうしろ姿を見送る。)
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伝兵衛 (気がついて。)おお、親分。お目ざめでございますか。
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(半七は無言で再びごろりとなる。九つの時の鐘きこゆ。)
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弥助 もう石町《こくちょう》の九つか。
伝兵衛 朝からなんだかごたごたしていたので、馬鹿に午《ひる》が早いようだ。
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(下のかたより常磐津文字清が取り乱した姿でかけ出して来るのを、おくめと幸次郎が追っていず。)
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おくめ おまえさん、まあ、お待ちなさいよ。
幸次郎 冗談じゃあねえ。おめえに滅多なことでもされて見ろ。おれ達が親分にどんなに叱られるか知れねえ。
文字清 いいえ、構わずに放してください。
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(文字清は激しい剣幕で二人を突き退けて店さきに来る。)
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文字清 (叫ぶ。)おかみさんに逢わして下さい。
弥助 (びっくりして。)おかみさんに逢いたいと云うんですか。して、おまえさんは。
文字清 (じれる。)逢えば判るんだから、早くここへ呼んで下さいよ。
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(弥助は煙《けむ》にまかれて相手の顔をながめている。伝兵衛は気がついて帳場を出る。)
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伝兵衛 (小声で。)おまえさんは下谷のお師匠《しょ》さんじゃありませんか。
文字清 そうですよ。早くおかみさんをここへ呼んで下さいよ。
伝兵衛 なにか御用ですかえ。
文字清 じれったい人だねえ。なんでもいいから逢わして下さいというのに……。
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(伝兵衛も困っている。おくめは進み寄って文字清の袂をひく。)
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おくめ お師匠さん。後生《ごしょう》だから素直に帰って下さいよ。それでないと、わたし達が困りますからさ。
文字清 わたしの方でも頼むから、まあ気の済むようにして下さいよ。(伝兵衛等に。)さあ、早く呼んで来て……。
伝兵衛 でも、むやみに逢わせることは出来ませんよ。こっちにも色々の取込みがあるので……。
文字清 どうしても逢わせないのかえ。そんなら勝手に通るから邪魔をおしでないよ。わたしはね、角太郎のかたき討に来たんだから。
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(文字清は帯のあいだから紙にくるんだ剃刀《かみそり》を取り出し、逆手《さかて》に持って店へかけ上がろうとするので、伝兵衛も弥助もいよいよ驚いてうろうろする。おくめも幸次郎もおどろいて支える。)
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おくめ まあ、お前さん。飛んでもない。そんなものを持ってどうする積りですよ。
幸次郎 どうも驚いたな。刃物三昧《はものざんまい》はあぶねえから、止しねえ、止しねえ。
文字清 ええ、放して下さいよ。
幸次郎 いけねえ、いけねえ。
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(文字清は哮《たけ》り狂って店へあがろうとするを、おくめと幸次郎は一生懸命にひき戻そうとして争ったが、文字清はむやみに剃刀をふりまわすので、二人も持て余して手を放せば、文字清は店へかけあがる。伝兵衛と弥助はあわ
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