うなれば何もかも申上げますが、実は和泉屋の仲ばたらきのお冬という女に手をつけまして……。尤もその女は気立ても悪くないものですから、いっそ世間に知れないうちに相当の仮親をこしらえて、嫁の披露をしてしまった方がいいかも知れないなどと、親たちも内々相談して居りましたのですが、思いも付かないこんな事になってしまいまして、つまり両方の運が悪いのでございます。
半七 そのお冬というのは、年は幾つで、どこの者ですね。
十右衛 あけて十八になりまして、品川の者でございます。
半七 若旦那と色になるようじゃあ、定めて容貌《きりょう》もいいんでしょうね。
十右衛 容貌はまず十人並以上で、和泉屋の嫁に致しても恥かしくはないかと、わたくし共も存じて居りました。
半七 (うなずく。)いや、わかりました。(ひとり言のように。)やっぱりあの女か。
十右衛 お冬を御存じでございますか。
半七 あの騒ぎのときに楽屋でちらりと見かけたのが多分そのお冬という女でしょう。若旦那のそばへ行って無暗に泣いているのがちっとおかしいと思いました。いや、まだほかにもおかしい奴がありましたが、成程そんなわけがあったのですか。(かんがえて。)まあ、ようございます。それじゃあ、旦那。これからわたくしは具足町のお店へ出かけましょう。
十右衛 すぐにお出かけ下さいますか。
半七 下手の考え休むに似たりとか云いますから、思い立ったらすぐに取りかかって、なんとか早く埒をあけてしまいましょうよ。ぐずぐずしていると色々の面倒が起りますからね。
十右衛 では、もうお見込みが付きましたか。
半七 さあ。(笑って。)まだどうなるか判りませんが、あらましの段取りは附いたようです。
十右衛 (やや不安らしく。)そこで、そのお見込みはどういうことに決まりましたのでございましょうか。
半七 それは聞かないでください。この芝居も幕をあけてみなければどうなるか判らねえ。下手にやり損じると、今度は半七が腹を切らなければなりませんからね。
十右衛 でも、わたくしだけには御内々で……。決して他言いたしませんから。
半七 地獄極楽の区ぎり目の付くまでは、素人衆はまあ黙って見ておいでなさい。
十右衛 はい。(よんどころなく黙っている。)
半七 (かんがえる。)いや、そうでもねえ。おまえさんは味方に抱き込んで置く方が都合がいいかな。時に旦那はお酒をあがりますかえ。
十右衛 飲むというほどでもございません、まあ一合上戸ぐらいのことでございます。
半七 お飲みなされば丁度いい。生憎《あいにく》かかあがいねえので、碌なお肴もありませんが、まあ一杯飲んでから出かけることに致しましょう。(台所に向いて。)おい、亀。
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(台所より亀吉いず。)
[#ここで字下げ終わり]
半七 肴はなんでもいいから早く酒の支度をさせてくれ。
亀吉 あい、あい。(引っ返して去る。)
十右衛 どうぞお構いくださいますな。わたくしはもうお暇《いとま》をいたします。(起ちかかる。)どうもお邪魔をいたしました。
半七 ああもし、おまえさんはこれから和泉屋へ行きなさるんでしょうね。
十右衛 え。
半七 先廻りをしていかれちゃ困る。ここでわたしと一杯飲んで、どうぞ一緒に行ってください。
十右衛 (迷惑そうに。)はい。
半七 わたしもたんといける口じゃあねえ。やっぱり一合上戸のお仲間ですが、きょうは少し飲みましょうよ。顔でも紅《あか》くしていねえと景気が附きませんや。(笑う。)
十右衛 はい。
半七 旦那もまあお飲みなさい。よたん坊が二人連れで威勢よく和泉屋へ乗込もうじゃありませんか。
十右衛 (いよいよ困った顔をして。)はい。
半七 (台所に向いて。)おい、おい。なにをしているんだ。早くしねえか。
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(亀吉は徳利を持ち、おみのは膳を運びていず。)
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亀吉 馬鹿に急ぐんだね。
半七 ゆっくりしちゃあいられねえ。立場《たてば》だ、立場だ。
亀吉 まだ燗は本当に出来ねえぜ。
半七 冷《ひや》でもいいから早く持って来い。
亀吉 あい、あい。
半七 どれ、今のうちに衣裳を着かえて置こうか。(起つ。)旦那、かまわずに一杯やっていて下さい。亀、お相手をしろ。
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(云いすてて半七は奥に入る。十右衛門はなんだか落着かないような顔をして、あとを眺めている。)
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[#地付き]――幕――
第三幕
(一)
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京橋具足町の金物屋《かなものや》、和泉屋の店さき。間口の広い大店《おおだな》にて、店さきの土間にも店の左右の地面にも、金物類が沢山に積んである。上のかたには土蔵の白壁がみえて、鉄の大きい天水桶もある。軒には和泉屋と染めた紺暖簾がかかっている。下のかたには町家がつづいて見える。
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(第二幕とおなじ日の午頃。店の帳場には四十歳以上の大番頭伝兵衛が帳面を繰っている。ほかに番頭弥助、三十二三歳。おなじく和吉、二十四五歳。いずれも帳面をならべて十露盤《そろばん》をはじいている。若い者庄八と長次郎は尻を端折って店さきに出で、小僧三人に指図して、五徳や火箸のたぐいを縄でくくらせている。)
庄八 さあ、さあ、早くしろ。
長次郎 午飯《ひるめし》までに片附けてしまわなければならないのだ。
小僧一 これをみんな土蔵のなかへ運び込むんですかえ。
庄八 おなじことを幾度も聞くな。長どんのいう通り、これを片附けてしまわないうちは、誰にも午飯を食わせないぞ。
小僧二 この火箸は馬鹿に重いんですね。
長次郎 鉄で出来ているから重いのは当りまえだ。苧殻《おがら》の箸じゃあねえ。その積りでしっかり持て。
小僧三 餓鬼に苧殻ならいいが、餓鬼に鉄棒《かなぼう》を持たせるのだから遣り切れねえ。
庄八 生意気なことをいうな。ぐずぐずしていると、なぐり付けるぞ。
小僧一 やれ、やれ、きょうは朝からお小言の続け玉だ。
小僧二 定九郎なら二つ玉だが、つづけ玉じゃあ全くやりきれねえ。
小僧三 定九郎ならまだしもだが、勘平と来た日にゃあ大変だ。
長次郎 (叱る。)これ、大きな声でそんなことを云うな。
庄八 大旦那やおかみさんにきこえたら、それこそ大変だぞ。
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(小僧共も首を縮めて口をおさえる。)
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長次郎 さあ、早くしろ、早くしろ。
庄八 四五日商売を休んだので、みんな怠け癖が附いてしまやあがった。
小僧 (声をそろえて。)さあ、さあ、早くしろ。
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(庄八と長次郎も手伝いて、小僧共は金物類を上のかたへ重そうに運んでゆく。)
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伝兵衛 (あとを見送って舌打ちする。)小僧どもは碌なことを云わない。定九郎だの勘平だのと、そんな噂は禁物だ。
弥助 大旦那やおかみさんはもう忠臣蔵の芝居は一生見ないと云っておいでですよ。
伝兵衛 まったくお察し申すよ。わたしももう忠臣蔵は見たくない、あの晩のことを思い出すと、今でもぞっとするようだ。小僧共ばかりではない。若い者や女中たちにも今後決して忠臣蔵の噂をしてはならないと、かたく云い渡して置くがいいぜ。
弥助 はい、はい。
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(三人は再び帳面や十露盤にむかっている。向うより半七は着物を着かえて草履をはき、酒に酔いたるていにていず。あとより十右衛門が附添っていず。)
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十右衛 (不安らしく。)もし、親分さん。大丈夫でございますかえ。
半七 なにが大丈夫だ。神田から京橋まで、この通り真直ぐにあるいて来たじゃあねえか。(云いながらよろよろする。)
十右衛 もし、あぶのうございます。
半七 なにがあぶねえのだ。あぶ[#「あぶ」に傍点]がなければ蜂もねえや。はははははは。まあ、そんな理窟じゃあありませんかえ。
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(半七はよろよろしながら店さきに来る。十右衛門は困った顔をして、附いて来る。)
[#ここで字下げ終わり]
弥助 おお、露月町の旦那様でございましたか。
和吉 いらっしゃいまし。
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(半七はよろけながら店先に腰をかける。十右衛門は立っている。)
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十右衛 この中《じゅう》はみんなも御苦労でした。さぞくたびれたことでしょう。
伝兵衛 (帳場を出る。)これは入らっしゃいまし。この中はいろいろ御心配にあずかりまして、ありがとうございました。
十右衛 旦那もおかみさんも内ですかえ。
伝兵衛 はい。どなたも奥にお揃いでございます。どうぞおあがり下さい。
半七 そんな挨拶はどうでもいい。わっしの方に少し用があるんだ。
伝兵衛 おお、三河町の親分でございましたか。先夜は御苦労様でございました。いや、どうもお見それ申しまして、とんだ失礼をいたしました。
半七 どいつもこいつもみんな失礼な奴ばかり揃っているのだ。それを一々気にかけていた日にゃあ、ここの店へ足ぶみは出来ねえ。おい、誰でもいいから湯でも水でも一杯持って来てくれ。
伝兵衛 はい、はい。それ、和吉。
和吉 はい、はい。
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(和吉は半七を尻目に視ながら奥に入る。)
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半七 ああ、酔った、酔った。まっ昼間に飲んだせいか、馬鹿にのぼって来やあがった。
十右衛 まったく暑くなって来ました。
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(十右衛門は店に腰をおろし、ふところから手拭を出して額の汗をふく。)
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伝兵衛 どなたもよい御機嫌でございますな。まあ、ともかくもおあがり下さい。親分もどうぞ。
半七 おまえさんは今、大きな面をして帳場に坐っていなすったね。番頭さんかえ。
伝兵衛 はい。
十右衛 一番々頭の伝兵衛という者でございます。
半七 なるほど金物屋の番頭だけに、薬鑵《やかん》あたまに出来ていやあがる。どんな音がするか、おれに叩かしてみろ。
伝兵衛 え。
半七 はは、びっくりするな。冗談だ、冗談だ。(弥助に。)おまえさんも番頭かえ。
弥助 はい。弥助と申します。
半七 そっちがおしゅん伝兵衛で、こっちが鮓屋の弥助か。みんな揃って芝居がかりに出来ていやあがるな。それだからこの間のような騒動が起るのだ。今立って行ったのは何というのだね。
弥助 あれも番頭で和吉と申す者でございます。
半七 むむ、和吉というのか。番頭にしちゃあ若けえね。
伝兵衛 当年二十五になりまして、昨年の春から番頭格になって居ります。
半七 そのほかに牡《おす》の犬っころは何匹飼ってありますね。
伝兵衛 (面喰らって。)はい。
半七 はは、犬っころじゃあ判るめえ。男の奉公人のことさ。その犬っころが何匹いるんだよ。
伝兵衛 はい。
半七 小じれってえな。はっきりと返事をしろ。まさかに五百羅漢ほどに鼻をそろえている訳でもあるめえ。考えずともすぐに判る筈だ。
十右衛 (見かねて。)ここの家《うち》の奉公人は若い者が十二人、小僧が五人でございます。
半七 白雲《しらくも》あたまの小僧なんぞに用はねえ。大きい犬っころ十二匹をみんなここへ引っ張り出してください。
十右衛 はい。(伝兵衛と顔をみあわせる。)
半七 とんだ寺子屋だか、一匹ずつに首実験だ。早く引摺って来てください。
十右衛 はい、はい。
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(十右衛門は仕方がないから早く呼んで来いと眼で知らせれば、弥助は心得て店さきに立出で、上のかたに向って呼ぶ。)
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弥助 おい、おい。誰かいないか。
庄八 はい。はい。
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(上のかたより庄八出で、十右衛門と半七を見てあわてて会釈する。)
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弥助
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