勘平の死
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)初午《はつうま》
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(例)京橋|具足町《ぐそくちょう》
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(例)[#ここから1字下げ]
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登場人物 初演配役
和泉屋与兵衛 (団右衛門)
女房 おさき (菊三郎)
倅 角太郎
娘 おてる (福之丞)
仲働き お冬 (栄三郎)
番頭 伝兵衛
同じく 弥助
同じく 和吉 (男女蔵)
大和屋十右衛門 (彦三郎)
三河町の半七 (菊五郎)
その妹 おくめ (竹三郎)
常磐津 文字清 (鬼丸)
半七の子分亀吉 (伊三郎)
同じく 幸次郎 (鯉三郎)
ほかに女中。和泉屋の若い者。小僧。素人芝居の役者。手伝いの役者。衣裳の損料屋。芝居見物の男女など
大正一四・一二作
『演劇・映画』
大正一五・二、新橋演舞場初演
第一幕
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京橋|具足町《ぐそくちょう》の和泉屋という金物屋の奥座敷。初午《はつうま》祭の素人芝居の楽屋になっているていで、そこには鏡台が幾つも列んで、座蒲団などもある。衣裳|葛籠《つづら》がある。鬘がある。大小や編笠や鉄砲などの小道具がある。燭台や手あぶりの火鉢が幾つも置かれてある。薬鑵や茶道具などもある。何分にも狭いところに大勢が押合っているので、足の踏みどころも無いような乱雑の体《てい》たらくである。――江戸の末期、二月初旬の夜。
(座敷のまん中には忠臣蔵六段目の勘平に扮したる和泉屋の若い息子角太郎がうしろ向きに横たわっている。角太郎は半死半生で唸っているのを、店の若い者庄八と長次郎が介抱している。若い番頭和吉、二十四五歳、千崎弥五郎のこしらえで少しくあとに引きさがって眺めている。同町内の呉服屋のせがれ伊之助は原郷右衛門のこしらえ、酒屋のせがれ三蔵はおかやのこしらえで鬘だけを取り、同じくその傍にぼんやりと坐っている。そのほかに衣裳かづらの損料屋五助、顔師にたのまれて来た役者の三津平、店の若い者四五人と小僧二人、それらが立ったり坐ったりしてごたごたしている。)
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庄八 まだお医者は来ないのか。
長次郎 誰かもう一度行って呼んで来い。
庄八 急に怪我人が出来ましたから、すぐにおいで下さいとよく云って来るのだぞ。
小僧一 あい、あい。(下のかたへ出てゆく。)
伊之助 小僧さんひとりが行ったのじゃあ判らないかも知れない。誰か若い衆さんをやったらどうだね。
長次郎 じゃあ、いっそわたしが行って来ましょう。(起ちかかる。)
三蔵 正直に若旦那が大怪我をしましたからと云った方がいいかも知れないぜ。
庄八 そうだ、そうだ。怪我人は若旦那だと正直に云った方がいいよ。
長次郎 わかった、わかった。
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(長次郎はあわてて出てゆく。)
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三津平 なにしろ飛んでもないことになったものだね。
五助 どうしてこんなことになったのか、夢のようでさっぱり判らねえ。
三津平 わっしにも判らねえ、どうも不思議だよ。魔がさしたのかも知れねえぜ。
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(下のかたの襖をあけて、和泉屋の主人与兵衛、四十七八歳、あわただしくいず。)
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与兵衛 もし、せがれがどうしました。
伊之助 思いもよらないことが出来《しゅったい》して、みんなも呆気《あっけ》に取られているばかりです。
与兵衛 一体どうしたというのだ。
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(与兵衛は角太郎のそばに寄りて覗く。)
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与兵衛 これ、角太郎。急病でも起ったのか、これ、角太郎……。どうしたのだ。
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(角太郎は答えず、ただ唸っている。下のかたより和泉屋の女房おさき、あわてていず。)
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おさき 今夜の六段目は大変に出来がよかったと云って、みんなも感心して見ていたら、中途から角太郎が急に倒れたのでびっくりしました。(与兵衛に。)どこが悪いのですえ。
与兵衛 ただ苦しそうに唸っているばかりで判らないのだ。(庄八に。)おい、こりゃあどうしたのだね。
庄八 へえ。(他の人々と顔をみあわせる。)
おさき (のぞく。)おお、大変に血が流れているようだが……。
与兵衛 これは勘平が切腹の糊紅《のりべに》だよ。
三津平 それが旦那、糊紅でないのですよ。
与兵衛 え。
五助 若旦那はほんとうに腹を切ったのでございます。
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(与兵衛もおさきもおどろく。)
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与兵衛 なに、ほんとうに腹を切った……。そ、それはどういう訳だ。ええ、誰かはっきりと口を利かないか。
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(今まで黙っていた和吉進みいず。)
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和吉 それはこういうわけでございます。みな様方も御覧の通り、六段目の幕があきまして、腹切りまでは滞りなく済みましたが、若旦那の勘平が刀を腹へ突っ込んで、手負いの台詞《せりふ》になってから、何だか様子がおかしくなったのでございます。
与兵衛 むむ。その手負いになってから、なおさら出来がいいと皆んなも褒めていたのだ。
和吉 その手負いの台詞まわしや思《おもい》入れが稽古の時よりよっぽど念入りだとは思いましたが、ふだんから芝居上手の若旦那のことでございますから、大勢の見物を前に控えて、一倍気を入れてやっているのかと思って居りますと、どうもそれがだんだんおかしくなって来るので、わたくし達も不思議に思いました。
伊之助 わたしもそばで見ていながら、どうも様子が変だとは思いましたが、まさかこんなこととは夢にも気が付きませんでした。
三蔵 そのうちに角さんは倒れたままで起きないので……。
和吉 (ひったくるように。)よくよく見ますと、若旦那はほんとうに腹を切っていたのでございます。(声をふるわせる。)わたくしも実にびっくり致しました。
おさき でも、その刀はほん物の刀じゃあるまいが……。
与兵衛 そうだ、そうだ。芝居で使う銀紙の竹べらで、ほんとうに腹を切る筈はないではないか。
和吉 それがどうも不思議でございます。
与兵衛 損料屋さん。(詰《なじ》るように。)おまえさんの持って来た刀は本身《ほんみ》かえ。
五助 (あわてて。)ええ、飛んでもねえ。なんで本身なんぞを持って来るものですか。わたしが若旦那に渡したのは確かに舞台で使う金貝《かながい》張りに相違ないのですが、それがいつの間にか本身に変っていたので、こんな騒ぎが出来《しゅったい》してしまったのです。
与兵衛 いつの間にか本身に変っていた……。
おさき まあ、どうしたんでしょう。
与兵衛 それがどうも判らないな。
五助 まったく判りませんよ。
与兵衛 判りませんで済むものか。なんにしてもお前さんが係り合いだから、そう思ってください。
五助 でも、旦那……。
与兵衛 ええ、いけない、いけない。どうしてもおまえさんが係り合いだ。
おさき (与兵衛に。)まあ、おまえさん。そんなことを云っているよりも、早く角太郎の手当てをしてやったらどうです。なんだか息づかいがだんだんにおかしくなるじゃありませんか。
与兵衛 (気がついて。)むむ、うかうかしてはいられない。これ、医者を呼びにやったか。
庄八 はい。さっきから二度も呼びにやりました。
おさき 呼びにやったらすぐに来てくれそうなものだがねえ。手間が取れるようならほかのお医者を呼んでおいでよ。ぐずぐずしていると、間にあわないじゃあないか。
与兵衛 誰でもかまわないから、すぐに来てくれる医者を呼んで来い。三人でも五人でも十人でも一度に呼んで来い。早くしろ。早くしろ。なにをぼんやりしているのだ。
店の者 はい、はい。行ってまいります。
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(若い者のひとりは下のかたへ駈けてゆく。)
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与兵衛 ああ、こうと知ったら今年の初午などはいっそ止めればよかった。
おさき 初午もお祭だけにして、芝居などをしなければよかったのでしたねえ。
与兵衛 それも角太郎が先立ちになって騒ぎはじめたのだ。(角太郎を覗いて。)ああ、どうもだんだんに様子が悪くなるようだ。庄八、今度はおまえが行って医者をさがして来い。
庄八 はい、はい。
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(庄八は起って行こうとする時、下のかたにて案内の声がきこえる。)
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長次郎 どうぞこれへお通りください。
おさき おお、いい塩梅《あんばい》にお医者が来たらしい。
与兵衛 医者が来たか、来たか。
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(下のかたより以前の長次郎が先に立ち、岡っ引の半七を案内していず。)
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庄八 おや、お医者ではないようだぞ。
与兵衛 長次郎。ここへ御案内して来たのはどなただ。
長次郎 三河町の親分でございます。
与兵衛 三河町の親分……。
半七 (丁寧に会釈《えしゃく》する。)へえ。御取込みの最中へ飛び込んでまいりまして、とんだ御邪魔をいたします。わたくしは神田の三河町に居りまして、お上の十手をあずかっている半七と申す者でございます。
与兵衛 (おなじく丁寧に。)おお。では、お前さんがかねてお名前を聞いている三河町の半七親分でございましたか。わたくしはこの和泉屋の主人与兵衛でございます。
半七 実は唯今この町内の角でお店の長次郎さんに逢いましたが、なんだか息を切って駈けてくる様子が変ですから、どうかしたのかと聞いてみると、初午のお芝居から飛んだ間違いが出来ましたそうで……。わたくしもびっくり致しました。して、怪我人はどんな様子です。
与兵衛 (少し迷惑そうに。)長次郎めがおしゃべりを致して、なにもかも御承知とあれば、今更かくし立ては致しません。思いもよらない間違いから、せがれはこの通りでございます。
半七 まっぴら御免くださいまし。
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(半七は角太郎のそばに進みより、声をかける。)
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半七 もし、若旦那。気は確かですかえ。
与兵衛 さっきから何を申しても返事はございません。
半七 そうですか。困ったものだな。(角太郎の疵をあらためる。)そうして、その刀というのはどれですね。
庄八 これでございます。(血に染みた刀をみせる。)
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(半七は無言で刀をうけ取り、燭台の灯に照らして見て、やがて一座の人々の顔をずらりと見わたす。人々は何となく薄気味悪いように眼を伏せる。)
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半七 今夜の小道具の損料屋さんはいますかえ。
五助 (ぎょっとして。)はい、はい。わたくしでございます。
半七 この本身はおめえが持って来たのかえ。
五助 それを旦那からも御詮議でございましたが、わたくしは決してそんなものを持って来た覚えはございません。ねえ、三津平さん。
三津平 わたしも皆さんの顔をこしらえに来て、舞台の上のことも何やかやとお世話をしているので、衣裳や持物はみな一と通り調べましたが、五助さんの持って来た大小は金貝張りで、決して本身ではなかったのでございます。
半七 それがいつの間にか本身に変っていたのか。(再び一座を見まわして考えている。)
三津平 今も云っているところですが、どうも魔がさしたとしか思われませんよ。
半七 まったく魔がさしたのかも知れねえな。(刀をながめて再び考えている。)
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(下のかたより角太郎の妹おてる、十六七歳。仲ばたらきお冬、十七八歳。あわてていず。)
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おてる もし、兄《にい》さんがどうかしたのかえ。
お冬 若旦那様がお怪我をなすった
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