そうですが……。(倒れている角太郎を見て駈けよる。)もし、若旦那。どうなすったんですよ。(泣き声になって呼ぶ。)もし、若旦那……若旦那……。
与兵衛 これ、これ、親分さんもいらっしゃる。まあ、静かにしろ、静かにしろ。
お冬 でも、若旦那がこんなになって……。
おさき まあ、まあ、あとで判ることだよ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(おさきは眼で制する。お冬は泣いている。)
[#ここで字下げ終わり]
半七 時にお医者はまだ来ませんかね。
長次郎 すぐに来るということでしたが、なにをしているのかな。
おさき おまえの云いようが悪いのじゃあないか。
長次郎 いいえ。若旦那が大怪我をしたから、すぐに来てくれろとよく云ったのでございます。
与兵衛 (じれる。)なにしろ遅いな。庄八、ここには構わずに早く行って来い。
庄八 はい、はい。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(庄八が起とうとする時、下のかたよりばたばたと足音して、大勢の見物客が男女入りまじって、どやどやと入り来たる。)
[#ここで字下げ終わり]
男甲 若旦那が怪我をしたというじゃありませんか。
大勢 (口々に。)どうしました、どうしました。
半七 ああ、いけねえ、いけねえ。むやみに這入り込んで荒しちゃあいけねえ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(半七は片手に刀を持ち、片手で大勢を制する。おてるとお冬は角太郎を取りまいて泣いている。)
[#ここで字下げ終わり]
男乙 でも、若旦那が倒れているようだ。
女甲 ほんとうにどうなすったのだろうねえ。
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(大勢はがやがや云いながら覗こうとする。)
[#ここで字下げ終わり]
半七 ええ、うるせえな。斬るよ、斬るよ。
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(半七は持っている刀をふりまわせば、人々はおどろいてあとへ退《さが》りながら、まだがやがや云っている。)
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]――幕――

 第二幕

[#ここから1字下げ]
神田三河町、半七の家。ここは茶の間で、小綺麗に片附けられ、拭き込んだ長火鉢や、燈明のかがやく神棚などがある。庭には小さい池がある。壁には子分等の名前をかきたる紙を貼り附け、それにめいめいの十手《じゅって》がかけてある。次の間の正面は障子、その外に入口の格子がある。
[#ここで字下げ終わり]

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(第一幕より六日目の朝。子分の亀吉が表を掃いている。向うより半七の妹おくめが先に立っていず。おくめは神田の明神下に住む常磐津の師匠で、文字房という若い女。おくめのあとより三十七八歳の女が附いて来る。これはおなじ師匠で、下谷に住む文字清という女、色は蒼ざめ、眼は血走って、よほど取り乱したていである。)
[#ここで字下げ終わり]
おくめ 亀さん、お早う。
亀吉 やあ、明神下のお師匠《しょ》さん。早いね。
おくめ かせぎ人は違うのさ。(笑う。)
亀吉 まったくだ。まあ、おはいんなせえ。(云いながら文字清をじろじろ見る。)
おくめ 兄《にい》さんは家《うち》にいるの。
亀吉 おかみさんは朝まいりに出かけたが、親分はいますよ。なに、もうとうに飯を食って、顔を洗って起きているのさ。
おくめ おまえさんの云うことは逆《さか》さまだねえ。まあ、なにしろ御免なさいよ。
亀吉 さあ、さあ、通んなせえ。(格子の内に入りて呼ぶ。)おい、おい、親分。明神下のお師匠さんが来ましたぜ。
おくめ (文字清をみかえる。)さあ、遠慮なしにおはいんなさいよ。
文字清 はい。
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(台所より女中おみのが出て、手あぶりの火鉢に火を入れたりする。おくめと文字清は内に入りて坐る。奥より廻り縁づたいに半七いず。)
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半七 やあ、大層早いな。(長火鉢の前に坐る。)おい、おみの。なんだかお連れさんがあるようだぜ。茶を入れる支度でもしろ。
おみの はい、はい。
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(おみのは手あぶりを二人の前に置いて、奥に入る。)
[#ここで字下げ終わり]
おくめ 姉さんはいつも御信心ね。
半七 じゃあ、もう亀から聞いたか。きょうは十五日で深川へ朝まいりよ。時にそっちのお客様にはまだ御挨拶をしねえが、どなただね。
文字清 (すすみいず。)申しおくれて相済みません。わたくしは下谷に居ります文字清と申しますもので、こちらの文字房さんには毎度お世話になって居ります。
半七 いえ、どう致しまして……。おくめこそ年がいきませんから、さぞ色々と御厄介になりましょう。この後《のち》も何分よろしくおねがい申します。
おくめ そこで早速ですがね。この文字清さんがお前さんに折入って頼みたいことがあると云うんですがね。
半七 むむ。そうか。(文字清に。)もし、おまえさん。どんな御用だか知りませんが、わたしに出来そうなことだかどうだか、まあ伺って見ようじゃありませんか。
文字清 ありがとうございます。だしぬけにお邪魔に出まして、まことに恐れ入りますが、わたくしもどうしていいか思案に余って居りますもんですから、かねて御懇意にいたして居ります文字房さんにお願い申して、こちらへ押掛けに伺いましたような訳で……。お聞き及びかも知れませんが、この十日《とおか》の初午の晩に具足町の和泉屋で素人芝居がございました。そのときに和泉屋の若旦那が六段目の勘平で切腹すると、刀がいつの間にか本身に変っていたので、ほんとうに腹を切ってしまいました。
半七 それはわたしもその場に立会って知っています。和泉屋でも大騒ぎをして、医者を呼んで疵口を縫わせて、色々に手当をしたが、二日《ふつか》二晩苦しみ通して、とうとう息を引き取ったそうで、どうも可哀そうなことをしましたよ。
おくめ そのことに就いて、文字清さんが大変に口惜《くや》しがっているんですよ。
文字清 (泣き出す。)親分さん。どうぞ仇を取ってください。
半七 仇……。だれの仇を取るんだね。
文字清 わたくしの倅のかたきを……。
半七 え。(相手の顔をじっと見る。)少しわからねえな。
文字清 (物狂わしく。)わたくしはもう口惜しくって……口惜しくって……。(泣く。)
おくめ まあ、そう泣かないで、よくその訳をお話しなさいよ。
半七 唯むやみに泣いていちゃあ仕様がねえ。おまえさんの息子が一体どうしたというのだ。まあ、落ちついてはっきり云って聞かせねえ。
文字清 はい。(やはり身をふるわせて泣いている。)
半七 おい、おくめ。おまえがこの師匠を連れて来たんだから、一と通りのことは知っているだろう。師匠の息子がどんなことになったのだ。
おくめ 実はね、今云った和泉屋の若旦那はこのお師匠さんの息子さんですとさ。
半七 なに、和泉屋の若旦那はこの師匠の息子だと……。そりゃあおれも初耳だ。じゃあ、あの若旦那は今のおかみさんの子じゃあねえのか。
おくめ そうですとさ。
半七 ふむう。そうかえ。(かんがえている。)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(亀吉は盆に茶碗を乗せて出で、おくめと文字清の前に置く。)
[#ここで字下げ終わり]
亀吉 番茶でございますよ。
半七 話が少し入り組んで来たようだ。おめえは奥へ行っていろ。
亀吉 あい、あい。(奥に入る。)
半七 おい、師匠。文字清さん。和泉屋の息子の角太郎というのは、ほんとうにお前さんの子供かえ。
文字清 (顔をあげる。)はい。角太郎はわたくしの実の倅でございます。こう申したばかりではお判りになりますまいが、今から丁度二十年前のことでございます。わたくしが仲橋《なかばし》の近所でやはり常磐津の師匠をいたして居りますと、和泉屋の大旦那がまだ若い時分で時々遊びに来まして、自然にまあその世話になって居りますうちに、わたくしはその翌年に男の子を生みました。それが今度なくなりました角太郎で……。
半七 じゃあ、その男の子を和泉屋の方で引取ったんだね。
文字清 そうでございます。和泉屋のおかみさんがその事を聞きまして、丁度こっちに子供がないから引取って自分の子にしたいと……。わたくしは手放すのはいやでしたけれど……。(又泣く。)向うへ引取られれば立派な店の跡取りにもなれる、つまりは本人の出世にもなることだと思いまして、生まれると間もなく和泉屋の方へ渡してしまいました。
半七 そうして、おまえさんは其後も和泉屋へ出這入りをしていなすったのかえ。
文字清 こういう親があると知れては、世間の手前もあり、当人の為にもならないというので、わたくしは相当の手当てを貰いまして、せがれとは一生縁切りという約束をいたしました。それから唯今の下谷へ引越しまして、相変らずこの商売をいたして居りますが、やっぱり親子の人情で、一日でも生みの子のことを忘れたことはございません。せがれがだんだんに大きくなって、立派な若旦那になったという噂を聴いて、わたくしも蔭ながら喜んで居りますと、とんでもない今度の騒ぎで、わたくしはもう気でも違いそうになりました。(身をふるわせて又泣く。)
半七 なるほど、そんないきさつ[#「いきさつ」に傍点]があるのかえ。わたしはちっとも知らなかった。それにしても若旦那の死んだのは不時の災難で、だれを怨むというわけにもいくめえと思うが……。それともそこには何か理窟がありますかえ。
文字清 (きっとなって。)はい。判って居ります。あの角太郎はおかみさんが殺したに相違ございません。
おくめ それをわたしも今朝はじめて聞いたんですけれど、まさかに大家のおかみさんがそんな事を……。ねえ、兄さん。
半七 まあ、横合いから口を出すな。これは大切な御用の話だ。これからは師匠と膝組みで話をしなければならねえ。おまえもちっとのあいだ奥へ行っていろ。
おくめ はい。(文字清に。)じゃあ、おまえさんも御ゆっくりとお話しなさい。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(おくめは奥に入る。)
[#ここで字下げ終わり]
半七 おい、師匠。もっとこっちへ来てくんねえ。和泉屋のおかみさんが若旦那を殺したというには何か確かな証拠でもあるのかえ。若旦那を殺すほどならば、初めから自分の方へ引取りもしめえと思うが……。
文字清 角太郎が和泉屋へ貰われてから四年目に今のおかみさんの腹に女の子が出来ました。おてるといって今年十六になります。ねえ、親分。おかみさんの料簡になったら、角太郎が可愛いでしょうか、自分の生みの娘が可愛いでしょうか。角太郎に家督をゆずりたいでしょうか、おてるに相続させたいでしょうか。(だんだんに興奮して。)ふだんはいくら好い顔をしていても、人間の心は鬼です。邪魔になる角太郎をどうして亡き者にしようかぐらいの事は考え付こうじゃありませんか。まして角太郎は旦那の隠し子ですもの、腹の底には女のやきもちもきっとまじっていましょう。そんなことを色々かんがえると、おかみさんが自分でしたか人にやらせたか知りませんけれど、楽屋のごたごたしている隙をみて本物の刀とすり換えて置いたに相違ないと、わたくしが疑ぐるのが無理でしょうか。
半七 むむ。
文字清 (いよいよ興奮して。)それはわたくしの邪推でしょうか。親分、おまえさんは何とお思いです。(詰めよる。)
半七 (しずかに。)それだけの話を聴いたところじゃあ、お前さんがそう思い詰めるのも無理じゃあねえが……。
文字清 無理どころか、まったくそれに相違ないんです。わたくしは口惜しくって、口惜しくって……。いっそ出刃庖丁でも持って和泉屋の店へあばれ込んで、あん畜生をずたずたに斬り殺してやろうかとも思っているんですが……。
半七 (なだめるように。)まあ、まあ、そんな短気は出さねえ方がいい。お前さんはそう一|途《ず》に決めていても、世の中の事というものは白紙《しらかみ》へ一文字を引いたように、無造作にわかるものじゃあねえ。ともかくも悪いようにはしねえから、この一件はわたしに任せて置きな
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