てて飛び退く。この時、寝ていた半七は不意に飛び起きて、自分の羽織を取って文字清のあたまから被せて引き伏せる。)
[#ここで字下げ終わり]
半七 (おくめ等に。)あれほど云って置いたのに、なんで又ここへよこしたのだ。
おくめ だって、兄さん。一旦は家へ帰って又飛び出したのよ。
幸次郎 半気違げえだから仕様がねえ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(文字清は羽織をかき退けて跳ね起きようとするを、半七は又おさえる。)
[#ここで字下げ終わり]
半七 なるほど、こいつは始末に負えねえ。おい。番頭さん。大和屋の旦那を呼んで来てくんねえ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(文字清は身をもがくを、半七はおさえ付ける。)
[#ここで字下げ終わり]

  (二)

[#ここから1字下げ]
 和泉屋の奥の小座敷。正面の上のかたには三尺の釣床、かけ花生けには白椿の一と枝がさしてある。それにつづいて奥へ出入りの襖。庭の上のかたには四つ目垣、蕾のふくらんだ桃の木がある。下のかたには稲荷の小さい社《やしろ》、そのそばには八つ手の葉が茂っている。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(座敷には屏風をうしろに立てまわして、仲ばたらきのお冬がやつれた顔をして寝床の上に起き直り、薬をのんでいる。その枕もとに和泉屋の女房おさきが同じく暗い顔をして坐っている。)
[#ここで字下げ終わり]
おさき どうだえ。まだ気分はよくないかえ。
お冬 ゆうべからどうも頭《つむり》が痛んでなりません。
おさき それも無理の無いことさ。こころの疲れと、からだの疲れで、わたしでさえもがっかりして、骨も魂も抜けてしまったようだから、まして、お前は……。(云いかけて涙ぐむ。)察していますよ。
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(お冬は声を立てて泣き入る。)
[#ここで字下げ終わり]
おさき ああ、そんなに泣いてはからだに悪い。もう、もう、何事も因縁ずくと、わたし達も諦められないところを無理にあきらめるから、お前もどうぞ諦めておくれよ。
お冬 わたくしはいっそ死んでしまいとうございます。(すすりあげて泣く。)
おさき それでは却って仏のためにもならない。たとい角太郎がこの世にいなくっても、一旦はここの家の嫁にと思ったお前のことだから、わたしの方でも決して他人とは思いません。あとあとまでも面倒をみてあげる気でいるから、かならず弱い気を出さないで、一日も早く癒っておくれよ。旦那もしきりに心配していらっしゃるからね。
お冬 奉公人のわたくしにあんまり勿体ないことでございます。そうでなくても御苦労の多いところへ、わたくしがまた御苦労をかけましては相済まないことだと存じて居りますけれど……。(又泣く。)いくら諦めようと思いましても、それがどうにもなりません。こうして臥せって居りましても、若旦那のお顔やお姿が絶えず眼の先にちら付きまして……。
おさき それはわたし達も同じことで……。(眼をぬぐう。)あきらめると云う口の下から、未練も出る。愚痴も出る。ほんとうに情けないことだねえ。
お冬 おかみさん。わたくしはやっぱり死んだ方が優《ま》しでございます。(声を立てて泣きくずれる。)
おさき (眼をふいて。)ああ、もう止しましょう。お前をなだめる積りでいながら、わたしが一緒に泣いてしまっては何んにもならない。後生《ごしょう》だから、せめてお前だけはからだを丈夫にしておくれよ。忘れても死ぬなどという気を出してはなりませんよ。いいかえ。
お冬 はい。(泣いている。)
おさき あとで女中をよこすから、なんでも用があったら遠慮なくお頼みよ。
お冬 ありがとうございます。
おさき (いじらしそうに見て。)いいかえ。もうお泣きでないよ。風があたるからここの障子は半分閉めて置こうね。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(おさきは縁側の障子を半分しめて奥に入る。お冬はひとりで泣きながら薬をのむ。庭口より和吉が忍んで出で、あと先を見まわしながら縁先に来る。)
[#ここで字下げ終わり]
和吉 (小声で。)お冬どん、お冬どん。
お冬 誰。和吉さんかえ。
和吉 (やはり小声で。)だれもいないね。
お冬 おかみさんが出ておいでなすったけれど……。今は誰もいませんよ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(和吉は縁側ににじり[#「にじり」に傍点]上がり、障子をそっと明けてのぞく。)
[#ここで字下げ終わり]
和吉 まだ頭が重いかえ。
お冬 いそがしい中をたびたびお見舞に来てくれて有難うございます。
和吉 大旦那やおかみさんも心配していなさるから、早く癒らないじゃあいけないぜ。
お冬 あい。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(お冬はやはり啜り泣きをしている。そのいたましい姿を和吉はしばらく無言でじっと眺めていたが、やがて庭に降り立つ。)
[#ここで字下げ終わり]
和吉 じゃあ。きっと大事におしよ。
お冬 あい。(泣きながら。)おまえさんの親切は忘れませんよ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(和吉は行きかけて躊躇し、また思い切って縁先へ引っ返して来る。この時、下のかたの八つ手のかげより半七がそっと姿をあらわし、和吉とお冬の様子をうかがいて再び隠れる。)
[#ここで字下げ終わり]
和吉 (あと先を見返りながら。)お冬どん……お冬どん。
お冬 え。どうかしたの。
和吉 (縁に腰をおろす。)いっそ何んにも云わずにしまおうかと思ったのだが、それではやっぱり気が済まない。(声をうるませる。)わたしは思い切って何もかもおまえの前で白状するから、どうぞ落着いて聴いておくれ。いいかえ。びっくりしないで聴いておくれよ。いいかえ。
お冬 (不審そうに。)そんなに念を押してどんなことを話すの。
和吉 どんなことと云って……。(だんだんに興奮して。)さあ、それだからびっくりしないで聴いてくれというのだ。これ、お冬どん。(声をふるわせる。)おまえは若旦那がどうして死んだのだと思っている。
お冬 舞台で使う勘平の刀がいつの間にか本身に取りかわっていて……。それはおまえさんもよく知っているじゃありませんか。
和吉 それはわたしも知っている。誰よりも彼よりもわたしが一番よく知っているのだ。
お冬 おまえさんは若旦那と一緒に舞台に出て、千崎弥五郎を勤めていたんだから。
和吉 いや、そんなことじゃあない。あの時に勘平の刀をすりかえた者があって、若旦那はとうとうあんなことになったのだ。その若旦那を殺した奴……。それをわたしが知っているのだ。
お冬 え、刀をすりかえて若旦那を殺した奴……。それをお前さんはほんとうに知っているのかえ。
和吉 (苦しそうに。)むむ、知っている。知っている。それをおまえに話そうというのだ。
お冬 (思わず寝床からいざり出る。)あの、おまえさんはほんとうに……。
和吉 むむ、知っている。
お冬 して、そ、それは、だ、だれですかえ。
和吉 え。
お冬 早く教えてくださいよ。(にじり寄る。)
和吉 (縁に手をつく。)お冬どん、堪忍してくれ。
お冬 え。
和吉 主殺しの大悪人はわたしだ。この和吉だ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(お冬は思わず和吉にしがみつこうとして又躊躇し、やがてわっ[#「わっ」に傍点]と泣き伏す。その声におどろいて、和吉はあたりを見まわす。)
[#ここで字下げ終わり]
和吉 おまえが怨むのはもっともだ。どんなに怨まれても仕方がない。それはわたしも覚悟している。だが、お冬どん。後生《ごしょう》だからまあわたしの云うことを聴いておくれ。こうなればみんな正直に打明けるが、わたしがそんな怖ろしい料簡をおこしたのも……。(息をはずませて。)お前が恋しいばっかりだ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(お冬はおどろいたように顔をあげる。)
[#ここで字下げ終わり]
和吉 わたしは今まで一度も口に出したことはなかったが、とうからおまえに惚れていたのだ。どうしてもおまえと夫婦にならずには置かないと自分だけでは思いつめていたのだ。そのうちにお前は若旦那と……。そうして、近いうちに表向きにお嫁になると……。まあ、わたしの心持はどんなだったろう。お冬どん、察しておくれ。それでもわたしはお前を憎いとは思わない、今でもちっとも憎いとは思っていない。(いよいよ息をはずませる。)唯むやみに若旦那が憎くってならなかった。いくら御主人でももう堪忍が出来ないような気になって……。わたしは気が違ったのかも知れない。今度の初午の芝居を丁度幸いに、日蔭|町《ちょう》から出来合いの刀を買って来て、幕のあく間際《まぎわ》にそっと掏りかえて置くと、それがうまく行って……。それでも若旦那の勘平がほんとうに腹を切って、血だらけになって楽屋へかつぎ込まれた時には、わたしも総身に冷水《ひやみず》を浴びせられたようにぞっとした。それから若旦那が息をひき取るまで二日二晩のあいだ、わたしはどんなに怖い思いをしたろう。若旦那の枕もとへいくたびに、わたしはいつでもぶるぶる顫えていた。
お冬 (怨みの声をふるわせる。)和吉さん。おまえはなんという人だろう。あんまりだ、あんまりだ。(泣く。)
和吉 さあ、腹の立つのは重々もっともだが、もう少し辛抱して聴いておくれ。恋がたきの若旦那がいなくなれば、おそかれ早かれお前はわたしの物になる。いや、きっとわたしの物にしてみせる……。それを思うと、嬉しいが半分、苦しいが半分で、きょうまでこうして生きて来たが……。(嘆息して。)ああ、もういけない。あの岡っ引はさすがに商売で、とうとうわたしに眼をつけたらしい。
お冬 岡っ引が、もうここの店へ来たんですかえ。
和吉 大和屋の旦那と一緒に来て、酔っぱらっている振りをして、主殺しがここの店にいると大きい声で呶鳴り散らした上に、あてつけらしく磔刑《はりつけ》の講釈までして聞かせるので、わたしはもうそこに居たたまれなくなった位だ。(おびえたように左右をみかえる。)そこで、わたしはもう覚悟を決めてしまった。ここの店から縄附きになって出て、牢へ入れられて、引き廻しになって、それから磔刑になる。そんな怖ろしい目に逢わないうちに、わたしは一と思いに死んでしまう積りだ。
お冬 え。
和吉 そういうわけだから、おまえから見れば若旦那を殺した仇に相違ないが、わたしの心持もすこしは察して、どうぞ可哀そうだと思っておくれ。若旦那を殺したのはわたしが重々悪い。この通り、手をついて幾重にもあやまる……。その代り手前勝手の云い分かは知らないが……。(涙ぐんで。)わたしが死んだあとでは、せめてお線香の一本も供えておくれ。それが一生のお願いだ。
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(お冬も泣きながら聴いていると、和吉はふところから財布を出す。)
[#ここで字下げ終わり]
和吉 ここにお給金の溜めたのが、三両二分ある。これはみんなお前にあずけて行くから……。
お冬 いいえ、そんなものを貰っては困ります。
和吉 まあ、そう云わずに受取ってくれ。
お冬 でも、そんなものは……。
和吉 決して係り合いになるようなことはしないから、まあ、受取っておくれと云うのに……。
お冬 そんなことが人に知れると……。
和吉 知れないように黙っていればいいじゃあないか。
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(たがいに財布を押し遣り押し戻している時、八つ手のかげより半七が顔を出して咳払いする。和吉はおどろいて見かえれば、半七は再び隠れる。和吉はおちつかぬていにて、無理に財布をお冬に突きつけ、あわてて上のかたへ走り去る。)
[#ここで字下げ終わり]
お冬 (財布を持って縁先に出る。)ああ、もし、和吉さん。和吉さん。これは持って行って下さいよ。和吉さん。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(この時、八つ手のかげより又もや半七が姿をあらわして、再び咳払いをする。これに気がついてお冬は半七
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