這入《はい》つたので、兎《と》も角《かく》もそれを近江屋の親たちに話して聞かせると、迷ひ悩んでゐる弥助夫婦は非常によろこんだ。併《しか》しすぐに娘を連れて行くと云つても、きつと嫌がるに相違ないと思つたので、夫婦だけが先づその行者をたづねて、彼の意見を一応|訊《き》いて来ることにした。それは嘉永《かえい》二年六月のはじめで、今年の梅雨《つゆ》のまだ明け切らない暗い日であつた。
 行者の家《うち》は五条の天神《てんじん》の裏通りで、表構《おもてがま》へは左《さ》ほど広くもないが、奥行《おくゆき》のひどく深い家《うち》であるので、この頃の雨の日には一層うす暗く感じられた。何の神か知らないが、それを祭つてある奥の間《ま》には二本の蝋燭《ろうそく》が点《とも》つてゐた。行者は六十以上かとも見える老人で、弥助夫婦からその娘のことを詳しく聴いた後《のち》に、かれはしばらく眼《め》をとぢて考へてゐた。
「自分で自分の影を恐れる――それは不思議のことでござる。では、兎も角もこの蝋燭をあげる。これを持つてお帰りなさるがよい。」
 行者は神前にかゞやいてゐる蝋燭の一本を把《と》つて出した。今夜の子《ね》の刻
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